司馬遼太郎の思想について - 鎮魂と省察 -

司馬遼太郎の思想について - 鎮魂と省察 -
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『この国のかたち』について

『この国のかたち』が初めて単行本として刊行されたのは90年の3月で、それ以来、書店に並ぶと同時に買い込んで熱読していた。第五巻の奥付を見ると発行日は96年の3月10日になっていて、この日は大阪ロイヤルホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が開かれた日である。第一巻からずっと『この国のかたち』を読むのが楽しみで、そのとき読んでいる途中の本は後回しにして必ずこれを先に読んだ。そして司馬遼太郎に対する評価が自分の中で決定的になったのも、おそらくこの本を通じてであるように思われる。未完の作品である『この国のかたち』。私はこの作品には二つの内容が書かれていると思う。司馬遼太郎が渾身の随筆で読者に語ろうとした主題は次の二つであるように思われる。

一つは統帥権論を中心とした議論の展開で、要するに問題となっている司馬遼太郎の昭和史、書こうとして着手することのできなかった日露戦争以降の「鬼胎」の日本近代史について、小説ではなく随筆のスタイルで正面から総括を試みたように思われる。文藝春秋社から巻頭言の執筆を依頼された86年の元旦、最初は随筆を書き始めると小説が書けなくなるからと固辞していた司馬遼太郎が、最後に編集長に受諾したときの言葉が、「よし、オレ書くよ、書いておきたいこともあるしなあ」だったと言う。『韃靼疾風録』を書き終える一年半前の話であり、言葉どおり司馬遼太郎はこのあと小説の筆を折り、ここからの10年間の仕事は『この国のかたち』と『街道をゆく』を中心にした随筆活動が中心になる。

統帥権論は朱子学論と併せて『この国のかたち』の最初から問題提起されている。その後も作品全体の背骨をなす主題として議論され、第六巻の海軍論へと展開して物語の佳境に入っていた。佳境に入ったところで司馬遼太郎が倒れ、絶筆となり未完となった。もし連載が継続されていれば、ノモンハンを描いた小説に替わる十分の内容豊かなものが、司馬遼太郎の筆でわれわれに届けられていたに違いない。そのように想像する。「書いておきたいこと」とは倒錯して発狂した昭和国家の姿であり、それがどのように歴史的に招来されたのかを朱子学の問題から解明することだった。朱子学論と統帥権論は、冒頭の問題提起から徐々に歴史的内実が付加され、いずれクロスして結論部へと導かれただろう。

もう一つの作品の課題なり意図は、前者と関連するが、まさに『この国のかたち』という題名が示唆するとおり、司馬遼太郎の日本思想史である。司馬遼太郎はこの随筆において、独自の方法で日本思想史の概説と整理を試みている。神道論、古代仏教論、真宗論、朱子学論、江戸思想論、武士論。わずかに国学論(本居宣長)についての言及が少し薄い感じがする以外は、日本思想史のほぼ全領域がカバーされ、司馬遼太郎なりの視角で個々の思想性が位置づけられ、近代日本へ至る思想的経路の基本線が指し示されている。そしてその基本線が一転倒錯して昭和国家の鬼胎へと逆転する思想史についても、それなりの描き方をして見せている。すなわち健全な日本思想史の基本線の裏側に疫病神のように付着して噴出する朱子学イデオロギーという構図。

学問上の議論は様々にあるだろうが、一つの問題提起として、司馬遼太郎の提出した日本思想史論は説得的であり、成功していると言える。思想史は問題史として描く以外にあり得ないと言ったのは丸山真男だが、『この国のかたち』は問題史としての思想史として成功している。丸山真男の『日本政治思想史研究』以来の成功ではないかと私は思う。と言うのは、読者の多数がこの司馬遼太郎の思想史に納得したに違いないからであり、多くの読者にとっての日本思想史の理解として積極的かつ了解的に受容されたからだ。読者は、司馬遼太郎の観点と整理を基本的に是とし、今後、神道については司馬遼太郎の議論に準拠して考え、朱子学についても司馬遼太郎と同じ視線で捉えてゆくのではないか。

司馬遼太郎の日本思想史としての『この国のかたち』。それが面白いから私はこの本を夢中なって貪り読んだ。個々の議論について首を傾げる部分もある。しかし丸山真男のニ作品(『日本政治思想史研究』と『忠誠と反逆』)を例外として、日本思想史についてこれだけ画期的で説得的な作品は私にとって他にない。巨人司馬遼太郎の博学の到達点であり、あの超人的な知性の生涯の研究成果であり、しかも言葉は分かりやすく、日本思想史を考える者にとって最高の入門書であり思考素材と言える。また、これは余計な話かも知れないが、この『この国のかたち』は別の意味でも日本史思想史の教科書として最適と言えるのであり、要するに政治的な均衡感覚という問題を省みたとき、やはりこの辺りが中心軸だろうなあと感得させられるのである。
『この国のかたち』を読んだ頃

『この国のかたち』を最初に読んだ90年の春頃というのは、まさに日本のバブル経済のピークの時期だった。翌91年からいわゆるバブル経済の崩壊が始まり、今日まで続く長い長い泥沼の不況が続くことになるのだが、当時を思い起こせば、86年頃から始まった土地と株の値上がりは、経済大国の自意識の下、いつ果てるともなく続く集団狂躁と社会幻想を日本列島の上に醸成し、その異常な興奮の中で誰もが投機と消費の欲望に酔い痴れ、株券や土地に殺到した時期であった。バブル経済を批判的に見る論者も例外的に存在したが、それに勝って、現実主義的に、それを是認し肯定的に意味づけする論者の方が圧倒的に多く、新しい時代が来たのだから日本人は新しい生き方に切り変えよと説く者が多かった。

80年代から一世風靡したポストモダンとニューアカデミズムの思想潮流がその代表的なものであり、解体と脱構築を言い、差異を言い、規範の無意味と逸脱を唱え、働くのをやめて遊べと言い、生産ではなく消費せよと日本人を洗脳していた。若い連中のポストモダン(解体と脱構築の主張)は、どうやらマルクス主義が学界で飯を食えなくなった現実を悟った門下の若い連中が、生き残りのために自ら脱皮して世の中に吹き始めた流行の説法だということは薄々わかったが、当時は現在よりアカデミズムの影響力と説得力は強かったし、連中の高度消費社会論や高度情報社会論は、バブル経済の中で小金持ちの妄想に衝き動かされていた団塊中年たちの時代心理をよく弁証していたと言えるように思われる。

戦後日本の正統的な社会科学、それは戦後日本の経済産業基盤を作り、戦後日本社会の担い手を作り出してきた社会科学であると言える。印象としては大塚久雄の経済史学や丸山真男の政治学に代表されるものであり、市民主義とか進歩主義とか近代主義とか様々な呼び方でされる理論的立場であり、そしてそれにマルクス主義(戦後講座派)が挑戦者として対峙しつつ一つの構造体を形作っている思想世界であり、具体的には岩波書店の看板に代表され、全体として戦後民主主義の理念を守り推進するラディカルな政治的立場の思想であったと思うが、それが80年代に入ると途端に力を衰えさせ、理論的後継者を失い、或いは自身の立場的旋回(転向)によって脱構築思想に主流の座を明け渡して行くことになる。

マルクスとウェーバーの問題意識に代わって、フーコーを筆頭とする現代思想の時代になった。そして嘗ては「資本主義」を諸悪の根源だと批判していた者が、或いはその門下生たちが、いつの間にか「国民」を批判し「近代」を呪詛する声で学界を蓋うような景観が出現するのである。ニューアカデミズムの若い連中が(バブル崩壊後に経営破綻する)堤清二と結託して「差異」や「消費」や「情報」を説法していた頃、社会科学の中堅重鎮たちは「総力戦体制」を呪い、「近代の解体と脱構築」の「言説」に余念がなかった。岩波文化人も含めて右から左まで、包丁と金槌を振り上げて「近代」と「国民」の解体に精を出し、解体したと思しき机の上に「ジェンダー」と「マイノリティー」の言葉を置き土産に残していた。

私は急速に社会科学への関心と期待を失って行った。バブル経済を真摯に根本から批判する論者が社会科学の世界にいなかったからである。右も左もバブルに対しては容認、もしくは無関心であった。ポストモダンの連中はバブル経済を金儲けの好機として積極的に利用していた。若い連中だけではなかった。私は司馬遼太郎を読むようになっていた。『竜馬がゆく』から始まって歴史小説を読み、そしてあの名作『太郎の国の物語』が放送され、司馬遼太郎への共感と確信が揺ぎないものとなり、司馬遼太郎が自分自身の思想そのものになりつつあった頃、書店に『この国のかたち』が並んでいた。読み始めて思ったことは、自分が大学でせっせと勉強して身に着けた知識は、この本を読み解くためのものだったかという感想だった。

司馬遼太郎と戦後社会科学。私の問題意識はずっと一貫してそこにある。そして『この国のかたち』を手にしてから14年が経ったけれど、司馬遼太郎の思想的意義は日本においてますます重くなる一方であり、思想のスタンダードの位置を確固たるものにしている。アカデミズムと司馬遼太郎を秤にかけると司馬遼太郎の方が重い。現役の岩波知識人を何人束にしても司馬遼太郎に匹敵する説得力にはならない。器量の違いであり、知能の違いであり、人格の違いだろうと思わざるを得ないし、表現力と説得力の違いだろうと思う。そして文化の競争という意味で言えば、もし岩波書店が凋落しているとすれば、それは単に時代の激動のせいとかではなく、怠慢のせいであり、努力が足りなかったせいだと考えざるを得ないのだ。
日本の教養としての司馬遼太郎とその現場

現在の日本で最後に残っている「教養」の実体があるとすれば、それは司馬遼太郎ではないか。教養の言葉の意味は、「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それに準じてあらゆる個人的精神能力の統一的創造的発達を身につけていること」(広辞苑第二版)とある。定義そのものも少し分かりにくいが、今日、教養とは何かを表象するのは一昔前と較べてさほど簡単なことではなくなった。教養があると思しき人間の数が明らかに減少したからであり、何が教養であるのか判然としなくなったからであり、またそれを身につけることが生きる上でどのような意味があるのか曖昧になっているからである。教養の社会的地位と言うか、必要性についての社会的認識は以前と較べて格段に低下している。

そのようなものは生きる上で必要ないという考え方や主張に説得力があるし、確かに外国語と情報技術だけ習得していれば十分に世の中を渡って行ける。また「一定の文化類型」そのものが自明でなく、そのようなものは「近代」的で「国民」的なものだから解体せよという声が強そうだし、さらに最近では特に、出版物の世界で無理に教養を喚き散らしている者に教養の皆無な出鱈目なのが多く、余計に教養の言葉の価値を暴落させている現実がある。教養を説くかぎりは、何が教養なのかを先に言わなければならないし、これが教養だという中身が説得的なものでなければならないだろう。事実を言えば、現代の日本で教養的なるものは、唯一、司馬遼太郎だけであって、そしてそれはアカデミズムの外の世界にある。

たとえば大学を卒業したばかりの若者が会社に入って、酒席で先輩上司から話を聴くのが司馬遼太郎であり、『坂の上の雲』や『花神』なのではないか。レベルの差はあろうが、基本的にそういう話題で闊達になれる組織の人間関係や得意先関係というのは円満で幸福なものであると言えるように思う。司馬遼太郎の歴史小説の世界を意義深く話し聴く機会というのは、やはり十代の学生の間ではあり得ないだろうし、大学の教師と学生の間でも想定できない話だし、それが一番ぴったり収まるのは、会社の上司部下、得意先関係での会席での議論ということになる。つまり大人の世界であり、公的な拘束関係(権力関係・利害関係)を背景にした間柄での私的空間で、意義深い議論として映える知的対象物なのだ。

司馬遼太郎の世界は基本的に大人の世界のものである。だからそれは教養であると言える。思想オタクの学生が青い嘴で生半可に囀り散らす類のものではない。敢えて言えば、偶然に関係を与えられる組織の上司や得意先の顧客が、その内面に司馬遼太郎がぎゅうぎゅうに詰まっている人物であれば、基本的に幸運というものであり、まずは安心して仕事ができるものと言えるに違いない。また『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』は別として、『坂の上の雲』や『翔ぶが如く』は、組織の中で働く人間であるからこそ有意義に読めるという要素が少なくない。組織や事業に無関係な人間は、『坂の上の雲』に興奮することは少ないだろうし、組織の中で激務の人間であればあるほど司馬遼太郎は面白く読めるはずだ。

司馬遼太郎というのは面白くて、日本の若くて未熟な者を成熟に導く教育の作用があり、また逆に、老いつつある中年や初老の者の精神を若返らせ蘇らせる作用がある。組織の中で磨耗して衰弱する精神を常に覚醒させ蘇生させる効用がある。司馬遼太郎という教養は、電車の中での読書と酒席での座談において修得し反芻するものであり、そして休暇の機会に物語の舞台を旅してその世界を心に刻み重ねてゆくものである。時間をかけて内面の中で完成するものだ。組織と日常が教室であり、独学で修得するものであり、なおかつ必須の教養科目である。理工系の者であれ、人文社会系の者であれ、組織で人を差配する者は、司馬遼太郎を自分の言葉で部下に語れなければならない。八○年代からのニ十年間の日本ではそうだった。

現在でもそれは基本的には同じだろう。ただ組織のあり方が変わり、組織の中の個人のあり方も急速に変わっている最近では、グローバル資本主義の冷酷な論理が支配する組織の環境の中では、そうした悠長な教養の世界や前提がよく保存され維持されているかは多少疑わしい。だが、たとえ組織がどう変わったとしても、人間や社会には教養は必要なのであり、それが必要とされる場面において司馬遼太郎に替わり得るものは他にないのだ。姜尚中や宮台真司が言う「知」を信用することはできない。彼らは「知」芸能界の芸能タレントであり、彼らの「知」は歌手の歌と同じ商品であり、本来的に消費されて飽きられてゆくものだ。姜尚中や宮台真司を教養として修得した上司が部下を指導する組織など、現在も未来もありはしない。
司馬遼太郎の日本思想史 (1) - 基本線

司馬遼太郎が捉え描く日本思想史は、すなわち日本において独自に生成発展を遂げた合理的な武士の精神(リアリズム)の物語であり、そしてそれと裏腹の関係で日本史に狂気と厄災を齎す外来思想である朱子学(イデオロギー)との緊張と相克の物語である。誤解を恐れず大胆に概括すれば、そのように要約することができるだろう。司馬遼太郎の思想史の議論の中で肯定的に言われる「リアリズム」の概念は、歴史的範疇としての「武士の精神」と同義であり、また否定的な意味を帯びて繰り返し登場する「イデオロギー」は歴史的範疇としての「朱子学」と同義である。リアリズムとイデオロギー、武士の精神と朱子学、その二元論で説明するのが司馬遼太郎の日本思想史の方法である。

武士の精神、その原点は12世紀の関東で原野を開拓する武装した自営農民の「一所懸命」の思想であり、事物事象をありのままに認識判断する合理的思惟であり、また自律的で自助的な透徹した無私奉公の倫理的精神(名こそ惜しけれ)でもある。西欧のプロテスタンティズムに類似した思想性として語られる武士の精神。それが歴史的に独自の発展を遂げ、江戸近世の商品経済の爛熟の中で、例えば山片蟠桃や富永仲基において典型的に見られるような合理主義思想として豊穣に熟成、沈殿されて行き、幕末の植民地化の危機を見事に国民国家の形成によって突破し、世界史に誇れる明治国家の偉業を達成した。簡単に説明すれば、それが司馬遼太郎の語る日本思想史の基本線に他ならない。

基本線は武士の精神の発展の物語である。司馬遼太郎のこの方法的視角は、一見して、自由の精神の実現と伝播の系譜として世界史を説明するヘーゲルの発生史的方法を想起させるものでもあり、また、世界宗教の諸類型の中で、古代ユダヤ教から中世カトリック、近代プロテスタンティズムへと通ずる唯一の思想的経路のみが資本主義の合理的精神を結実したと説いて語るウェーバーの宗教社会学とも類似しているように思われる。実際、89年に制作放送されたNHK『太郎の国の物語』の中で、司馬遼太郎はウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に特に注目して援用し、明治国家を創生し経営した武士の精神と対比させる形で意義深く解説してみせている。

一方の朱子学イデオロギーであるが、こちらは中国朝鮮からの舶来思想であり、司馬遼太郎の日本思想史における諸悪の根源の役割と責任を押しつけられている。司馬遼太郎のそもそもの出発点は、あの「鬼胎」である昭和国家が思想的に何処から由来するのかという問題関心であるが、近代日本を発狂させ国家を破滅に導いた思想、すなわち社会科学の一般的概念で言うところの超国家主義、その実体は朱子学イデオロギーであると断定づけられるのである。13世紀に輸入された宋学、その尊皇攘夷思想の空理空論が歴史を生き延びて明治末年の左翼思想に転生し、それに対するカウンターとして右翼思想が現出し、骨肉相食む両者の死闘が明治国家のクリスタルなリアリズムを破壊したという説明。

この議論に対しては、学界の研究者の側から強い批判と反発があり、特にそのオリエンタリズム的傾向(中国朝鮮蔑視)を論難する声が頻出するに至っている。この批判はそれなりに当然と言えるが、ただ、この司馬遼太郎の自己認識(日本思想史の方法視角)は、問題意識の基本的な部分で丸山真男の『日本政治思想史研究』を継承するものであり、ほぼ同じスタンスと言っても過言ではない。実は丸山真男の思想史研究の方法的出発点もまた、中国朝鮮と異なってなぜ日本だけが東洋世界において近代化できたのかという着眼にあり、それへの解答を徳川思想史の中から導出する課題であった。「昔の日本はこうではなかったはずだ」という思いは、戦前の若い丸山真男の研究生活原点における信念でもあったのである。

無論、丸山真男の場合は、司馬遼太郎ほどには単純素朴で劇画的に明快な描き方はしていない。朱子学的思惟の解体から近代的思惟の発生を描出する手法、ボルケナウ的方法の徳川思想史への適用は、今なお学問としての日本政治思想史の水準を示す高度で精密なものである。だが、基本的に同じなのだ。自己認識(視角)としては司馬遼太郎と同質のものである。だから、今日の時点から見れば、丸山真男の『日本政治思想史研究』にもオリエンタリズム的偏向(中国朝鮮蔑視)を喋々される問題性が伏在する。伏在すると言えるけれども、だからと言ってそれが学問的価値を損う理由になるとは言えない。何故なら学問は時代の中で生産されるものであり、一足飛びにそれを超えることはできないからだ。

司馬遼太郎の日本思想史 (2) - リアリズムとイデオロギー

司馬遼太郎の日本思想史は、リアリズムとイデオロギーの相克で説き語られる思想史である。ひとまずそう言えると思うが、このリアリズムとイデオロギーの二分法の問題には多少とも要注意の問題性がある。この基本認識は司馬遼太郎の圧倒的な説得力とともに、現在、日本人のほぼ標準的な思考枠組になっていて、誰もが司馬遼太郎の口ぶりに準拠して、この二元論を前提に思想を議論し判断するようになっている。リアリズムは正でありイデオロギーは邪という前提である。最近の論者は、この公式を手前勝手に使い、論難する敵の思想や態度にイデオロギーの貼札を貼り付けて貶価し、そして自己の立場をリアリズムであると称揚して正当化を試みようとする。そういう姿勢や論調が目立つ。

司馬遼太郎が論じて以来、リアリズムの言葉のニュアンスは、日本の思想世界において格別な輝きと威力を持つようになった。またイデオロギーは本来おどろおどろしい響きのする異様な言葉であったが、司馬遼太郎以来、さらに悪性を帯びて忌み嫌われる言葉になったと言える。司馬遼太郎におけるリアリズムは、単なる現実主義や写実主義といった平板な概念ではない。明らかに美称的表現であり、理念的な意味が含まれている。理念型なのである。また司馬遼太郎の言うイデオロギーも、一般的な政治学的意味のものではなく、既存の学問世界の語義や用法に準じるものでもなく、特別な負性を集約された概念であり、特別な歴史的範疇となっている。この点をよく注意しなければならない。

リアリズムとイデオロギーは対立的な範疇である。武士の精神の別表現であるリアリズムの中に含まれる要素なり表象はと言えば、すなわち科学的で合理的で計数的な思考であり、透明でクルスタルな思想性であり、責任倫理と勤労倫理と清貧倫理を内在させた自助的で自律的な態度である。恰もウェーバーがプロテスタンティズムを説くように司馬遼太郎はリアリズム(武士の精神とその派生)を語る。あらゆる良性の思想的契機が集約包含されたような理念型がリアリズムであり、一般に現実主義の言葉の中に表現される悪い性質、すなわち没価値性や没理念性や日和見主義といったニュアンスは微塵もない。それらの瑕疵な要素は概念から排除されて、ピカピカの理念型に仕上げられている。

一方、イデオロギーはそれとは逆で、これ以上ないほどの悪魔的要素を詰め込まれた概念となっている。それは現実離れした観念主義であり、固陋な教条主義であり、ファナティックな煽情主義であり、空理空論の形而上学的思弁性であり、ファナティックな煽情主義であり、過激で直情的で破壊的な革命主義である。歴史的には、近世の水戸学と陽明学、幕末の尊皇攘夷と天誅テロ、近代においては左翼(マルクス主義)と右翼(昭和国家の超国家主義)がこのイデオロギー(朱子学)の現象形態である。或いは平田国学などもこの系列に含めるべきかも知れない。国語辞典的な意味でのイデオロギーは、すなわち広義に政治思想一般を指す場合が多いが、司馬遼太郎においては上のような意味で使われる。

ただこの二分法も学問的に厳密に構成されたものではない。むしろ物語における善玉と悪玉の対立配置のようであり、コントラストの方法で思想史が説明されている。リアリズムとイデオロギーの二範疇を純粋に社会科学な概念として子細に追及すれば、間違いなく矛盾や不具合が方々に噴出するに違いない。実は『この国のかたち』や『明治という国家』などの思想史作品だけでなく、司馬遼太郎の歴史小説そのものが、このリアリズムとイデオロギーの対照的手法で描き出されていることを読者はよく承知しているはずである。司馬遼太郎の歴史物語には、リアリズム的なものを内面化した人物とイデオロギー的なものが結晶化された人物とが必ず対立的に登場し、両者が齟齬と角逐を演じるのである。

例えば『坂の上の雲』における児玉源太郎と乃木希典のコントラスト。他の作品にも同じ範型は無数にある。成田龍一は『司馬遼太郎がわかる』(AERA MOOK)の中で、司馬遼太郎が幕末の思想的配置図の設定において、長州を革命主義、薩摩を合理主義としてその性格の相違を際立たせて捉えている点に注目しているのだが、実は薩摩を描いた『翔ぶが如く』の中にもリアリズムとイデオロギーの二者の対立があり、また長州を描いた『花神』の中にもそれはある。革命に過激に狂奔する長州だが、主人公の村田蔵六はまさに合理主義の塊のような技術者として描かれ、物語中に幾度も長州の過激な攘夷論者と激突する場面がある。全ての中に二元対立の構図は用意されており、コントラストの手法で意味説明が説得的にされているのである。
司馬遼太郎の日本思想史 (3) - 神道と仏教

リアリズムとイデオロギーの二分法で解き明かす司馬遼太郎の日本思想史の方法は、また同時に歴史小説の世界においても重要な主題となり構図となるものであり、物語の場面を展開させてゆく役割を果たしていた。幕末を描く場面においては、長州の冒険主義的革命路線と対照的に合理主義的外交路線が印象的に提示される薩摩だが、その薩摩そのものを描いた『翔ぶが如く』においては、やはりリアリズムとイデオロギーの対立と相克というテーマが主要な構図として用意配置されている。すなわち合理的な戦略計算も十分な兵器補充もないままに、勇猛果敢な兵児(へこ)の戦闘精神と白刃による突撃戦術だけに依存して政府軍に対抗し、徒に兵力を消耗して壊走する薩摩軍とその幹部たち。

桐野利秋、篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太らの妄想的で独善的な精神主義の路線。これこそドラマにおけるイデオロギー系列のキャスティングである。一方、敵方の作戦と彼我の戦力を冷静に分析し、豊後・豊前方面に進出して、瀬戸内海から大阪湾を衝く奇襲策を講じた野村忍介はリアリズムの体現者として描かれる。コントラストの手法。幕末の歴史舞台において際立った合理主義的政治感覚を示していたかに見えた薩摩だが、明治初年の歴史舞台においては狂信的な精神性に支配された暴発集団となり、装備と兵員に優越した政府軍に撃退され自滅する配役を与えられる。合理主義と精神主義の対立の手法。恐らく、この二分法の基底には司馬遼太郎自身の戦争体験が深く影響している。

作戦や兵站を無視し、精神や気合だけで戦争に勝利できると嘯き、そのように各部隊を指導し、国民を引き摺り回し、挙句に国家と国民を地獄に叩き落した陸軍参謀本部、彼らに対する徹底的な不信と憎悪。その思いがまさに司馬遼太郎の創作の原点をなしている。ところで、リアリズム(武士の精神)とイデオロギー(朱子学)のみに注目して司馬遼太郎の思想史を見てきたが、『この国のかたち』でカバーされているのはその二つだけではない。神道論と仏教論がある。日本思想史を語る上で欠くことのできない問題である神道と仏教、だが、あくまで司馬遼太郎にとってこの二つは物語の脇役であり、主役と敵役の傍らで物語全体に厚みと彩り加えるサブ・キャストの役割配置でしかない。

神道については古神道の自然崇拝、自然信仰の本質性が強調され、言挙げせぬ思想性、自然への畏敬と謹み多い、平明で静謐な精神性の側面が強調される。司馬遼太郎にとって神道はアイルランドの森の中で妖精たちが舞い踊る多神教(ドルイド教)の世界と同じものであり、何の政治性も持たない素朴な思想である。古神道には本来的に教義が存在しない。人を飼いならす支配の道具としての機能や意味を持たない。そのように規定される。司馬遼太郎がアイルランドを旅したのは、文明の辺境の地に日本を見たからだろうが、オランダ(蘭学)やスペイン(南蛮文化)のように、日本史と直接関係のないアイルランドに郷愁と共感を覚えたのは、やはりケルト文化の多神教の世界に日本の思想と共通するものを見出していたからだろう。

こうして古神道の静寂性を強調することは、言説において、戦前の鬼胎(超国家主義)がそれと無縁であることの説諭でもある。一方、仏教の方だが、誤解を恐れず大胆に言ってしまえば、司馬遼太郎の視線は日本仏教に対して至極冷淡である。鎮護国家のシステムとして律令とセットで輸入された仏教は、中世、独自の宗教性として日本化を遂げて行くが、親鸞と道元の二人の哲人を世に輩出したほかは、意味ある思想性として進化発展することなく呪術化の道を歩んで民衆の日常の中に埋没してしまう。「病気治し」の呪術としてのみ歴史を生き存えるに止まる。仏教が日本において呪術化するパターンは、一つ中世の真宗のみならず、古代の真言も同じであり、空海という絶世のカリスマが絶えた後、真言教団は忽ち呪術化して世俗化してしまう。

素行不良な高野聖たちが空海の教説と護符を販売して怪しげに回国する姿や、真宗の門跡が諸国を巡錫したときに宿で使った残り湯を信徒がありがたがって飲む呪術的風景が、司馬遼太郎が歴史的に捉えるところの日本仏教のあり方であった。それは現世を合理的に改造する思想として発展を遂げることなく、したがって日本に近代的思惟を準備して国民国家を創出する精神革命に参加すること能わなかった。日本仏教において明治維新は他人事でしかなかったのである。近代において真宗がようやく覚醒し奮起するのは、明治の清沢満之の哲学の業績においてであるとされる。司馬遼太郎において日本仏教への評価はかく厳しい。西大谷廟の墓碑銘を前にして、ふと違和感を覚えて途惑うのは、一つにはそうした事情があるのであるが。
関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」』を読む

関川夏央の『司馬遼太郎の「かたち」』は00年に文藝春秋社から刊行されたもので、初出はその年の「文藝春秋」誌上である。今回、文庫本となったものを初めて読んだが、一読した感想は佳作であり、予想を超えて秀逸な中身のものだった。司馬遼太郎関連の出版物、特に司馬遼太郎を評した評論の類には幻滅させられるものが多い。司馬遼太郎を評するという課題自体が尋常でない難問であるに違いないのだが、その課題の大きさや重さに対して自覚的でない論者が多く、態度が不遜な者が多いのである。司馬遼太郎を評するという事業は、仮にどのような名声と地位を築いている名士や文士にとっても、壮絶な覚悟を要するべき挑戦であり、精神の緊張を強いられる大事であるはずなのだ。

司馬遼太郎の巨大さと較べて、それを評論する者たちの小柄さや軽佻さが際立ち、そのため、司馬遼太郎評論文集を読むことは不快を催す場合が多く、気になりながらも、それに積極的に視線を向けるのを控えてきた。だからこの著作にも期待は持っておらず、せいぜい、死後に明らかにされた新事実の情報収集の意味でしか期待していなかったのである。考えてみれば、文藝春秋の名において司馬遼太郎の思想的意味を文章にするということは、責任の重い仕事であろう。文筆の失敗は許されず、安直な成果で妥協することも許されない。その難事業に対して関川夏央はよく成功を得ていると言える。文藝春秋による司馬遼太郎追悼書として十分の内容に仕上がっている。淡々とした文章の中に確かな誠意と熱意が伝わってくる。

関川夏央が本書の執筆の念頭に置いているのは、まさに文藝春秋らしさなのではないのか。文藝春秋の恩人であった司馬遼太郎を描き起こす作業において、最も文藝春秋らしい文章を意識して、これが文藝春秋の文化なのだと世間に言い聞かせるように、文章の構成と表現が練られているように思われる。文章は丹精な文章だが軽快さが感じさせられ、また愉快を誘う要素も嵌め込まれている。事実を正確に書くこと、徹底的に取材をすること、取材を構成に生かすこと、そうしたジャーナリズムの基本哲学のようなものが反映されているようにも思われる。この作品で目的とされているのは、司馬遼太郎論以上に文藝春秋論であり、それが文藝春秋周辺の関係者たちに語られているのに違いない。

本書の内容は、『この国のかたち』が「文藝春秋」の巻頭言として書かれた十年間の時代の流れを追いつつ、司馬遼太郎が当時の歴代編集長たちに送り届けた手紙を素材にして、各編集長たちの回想を織り入れながら、司馬遼太郎が晩年の十年間に何を考えていたのかを明らかにするものである。この材料と枠組だけで司馬遼太郎論の試みとして成功する十分な前提条件が揃っているが、この材料を成功的な作品に仕上げるためには、何より文章力が要る。そして、文藝春秋の文化に内在しようとする著者の姿勢が、作品の成功を導いているように感じられる。関川夏央の文章に感じられる文藝春秋的文化性とは、一つは取材を作品に生かす態度だが、もう一つは文芸論、文学論の素養である。

この書の成功の一つは、文学論の視点からの司馬遼太郎論ではないか。これは今までの司馬遼太郎論の中でも卓越しているように見える。司馬遼太郎は国民的作家と言われながら、一般に文学的評価は高くない。そこには奇妙な断裂があり、司馬遼太郎の日本文学世界における座りの悪さの事実がある。その問題に関川夏央は正面から挑んでいて、司馬文学という巨大な世界をよく捉えているように思われる。それと私が感心したのは、あとがきにある「司馬遼太郎は巨大な作家であった。同時に矛盾を内包し苦衷に満ちた作家であった」の一言である。司馬遼太郎の巨大さを讃える者は多いが、同時に司馬遼太郎の矛盾を指摘する者は少ない。巨大で矛盾、この言葉こそ司馬遼太郎の本質を衝いている。

司馬慮太郎には矛盾が多いのだ。矛盾が多く、過剰なほどリップサービスが多い。カリスマは須くそうだが、局所の矛盾を巨大な人格と思想で覆い包んで動いている。相手に応じて言うことを変えている。科学や論理が要求する客観的な整合性や首尾一貫性を無視、あるいは拒絶したところがある。それを飛び越えても(自分は書生であり小説家なのだから)別に構わないじゃないかという思想的要素がある。そこの矛盾の要素をよく見ないと司馬遼太郎の思想は理解できない。司馬遼太郎を正確に誠実に語ろうとすればするだけ、司馬遼太郎の矛盾に気づくはずであり、それを無視できないはずである。司馬遼太郎の矛盾を無視して、一面的に賛美することは司馬遼太郎の虚像を読者に提供することに繋がる。
『土地と日本人』をめぐる問題 (1)

司馬遼太郎が死んだそのとき、ちょうど今日に至る不良債権問題の発端となった住専問題が世間を騒がせている最中であり、住専問題について田中直毅と対談した司馬遼太郎があらためて持論の土地国有論を述べ、日本人にバブル経済の反省を迫っていたこともあり、逝去後の暫くの間、この問題が論壇で取り上げられて話題となっていた時期があった。『諸君』か『正論』あたりで、谷沢永一などによって議論されていたような記憶があるが、当時の保守系の雑誌の論調は、当然のことながら、この土地国有論を司馬遼太郎の思想における唯一の錯誤として批判する論点に立っていて、瑕疵であるこの主張を司馬遼太郎の思想の籠から除外し、司馬遼太郎の土地国有論を真に受けないように宣伝に努めていた。

時代は変わり、バブル経済の崩壊は十年以上続く大不況の海に日本経済を突き落とし、しかも単なる不況という言葉が示す景気循環のニュアンスを超えた歴史的な不況の時代として構造化し、デフレとリストラが当然化した世の中が現出して、当時の土地問題の議論やそれ以前の土地騰貴の時代の社会環境を意識の上に甦らせることは容易でない状況になっている。不良債権問題について言えば、政府や銀行はこの十年間に何度も峠を越えたとか、先の見通しが立ったと言って国民に子供騙しの嘘をついてきたが、その都度、流通業や建設業の企業破綻があり、株価が下落し、銀行の自己資本比率が下がり、合併整理と公的資金の投入でその場を凌ぐというパターンを繰り返してきた。日本の二十代以下の若者は経験として好況の時代を知らない。

『土地と日本人』は、読み直してあらためて強い感銘を受け、また共感を新たにする。古くなっていない。これを初めて読んだのは83年頃で、バブル経済の前だったが、例の「銀座でジュース一杯の値段が700円もするのは土地の値段が入っているからだ」という司馬遼太郎の批判的主張は、今でも意味と説得力を失っていない。その当時も思っていたことで、今でも思っていることだが、日本の労働力のコストが高いのは基本的に土地価格のせいである。住宅ローンの過重な負担があるからだ。日本の物価が高いのは、土地賃料のチャージだけでなく、土地価格の高負担を抱えた労働賃金のせいであり、そして不当に高額な公共料金と法外な税金のせいである。日本の高コスト体質は土地問題そのものなのだ。

コストが高いのは土地のせいである。土地に対して労働者が無理に負担させられる部分(不等価交換)があり、それが一部は保有資産の含み価値に化けて企業経営を潤し(それはまだ資本主義の枠内の話で労働者にも還元がある)、一部は土地を転売する不労所得者の手に入って浪費され、それが構造化されて資本が循環し、日本の経営と行政の不問不動の前提条件となっているから、日本の労賃は高く、物価は高く、高コスト体質は已まないのである。一般国民である日本の労働者は資本家によって搾取されてきたのではなく、土地を保有転売するブローカーによって収奪されてきたのだ。土地問題さえなければ、日本の物価は安く、労賃も安く、日本の国際競争力もこれほど弱くなることはなかった。

土地問題を抱えた日本の資本主義が正常な資本主義ではないという司馬遼太郎の指摘は全く正しい。これが正常な資本主義になるためには土地国有するしかないという司馬遼太郎の主張は正しい。日本経済を、土地ブローカーが国民を収奪する資本主義ではなくて、企業経営者が労働者から剰余価値を搾取する正常な(マルクス的な)資本主義に変えなくてはいけないのだ。バブル崩壊以降、土地価格を騰貴させて需要を創出し、資本を増殖する戦後日本資本主義の蓄積循環スパイラルは動きを止め、逆に土地価格が下がるほどに不良債権が増大して資本の循環が縮小するデフレスパイラルが続いている。歯止めがかかる展望は見えず、一部産業の輸出競争力を担保にした借金財政と外資の補給で経済を持ち支えている。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』は、戦後日本の高度成長を弁証する小説作品であると言われている。その指摘は誤りではないだろうが、一方で司馬遼太郎は戦後日本の高度成長について極めて厳しい目で捉えていて、そのいかがわしさを見逃していない。高度成長の本質が土地商品化による企業の含み資産増殖にある事実を直視し、それが投機資本主義に過ぎなかった真実を喝破している。『土地と日本人』の最初の対談は75年に野坂昭如とのものだが、石油ショック後のこの時期、バブル経済より十年以上前の段階で土地国有論を強く主張しているのである。司馬遼太郎は田中角栄が大嫌いで、それを隠さず、田中角栄の思想と行動を戦後日本の諸悪の根源のように激烈に批判している。

『土地と日本人』をめぐる問題 (2)

「戦後社会は、倫理をもふくめて土地問題によって崩壊するだろう」。文庫版のあとがきに書かれているこの言葉は、それを最初に読んだとき私の心を捉えたが、その後、バブルの時代となり、また司馬遼太郎が日本の思想世界の頂点にあった後は、雑誌等で何度も使われ、憂国の予言として頻繁に紹介された。20年前もこの予言は的中すると確信したが、果たして、現在は戦後社会崩壊の最後の局面を迎えている。司馬遼太郎の土地国有論は私にとって実に魅力的であり、私を司馬遼太郎に惹き付ける強烈な磁力になった。これがあるとないとでは私の司馬遼太郎への評価は大きく異なる。逆に保守的な立場の者にとっては、この司馬遼太郎の土地国有論は厄介な腫物であり、なるべく隠しておきたい思想的存在であろう。

バブルの頃の論壇を振り返って、司馬遼太郎ほど強力に土地国有を主張していた論者を他に思い出すことができない。左派のエコノミストたちも、流石にここまで大胆な政策の提言には及び腰の様子を見せていた。土地国有とはまさに社会主義の経済政策だからである。経済学者が小手先で論じるテクニカルな問題の領域を超えていた。それは司馬遼太郎のような巨大な思想家が国民に問い訴える思想的問題に他ならなかった。当時の私は一もニもなくこの議論に賛同したのだが、現在は賛同にも多少の考慮の時間を経てということになる。司馬遼太郎の土地国有論には、司馬遼太郎らしい思想的位相があるのである。この議論こそ司馬遼太郎の思想の若さを端的にあらわすものであり、司馬遼太郎の革命思想を示すものである。

現在の私は、果たして日本で土地国有制を実現しても、条件と場合によるが、それが理論どおりにうまく機能するかどうか疑わしく思い始めている。再生産構造から土地ブローカーの非生産的要素を除去して、資本主義を純粋で完全な資本主義に転換し循環させられるかどうか、怪しく感じ始めている。古代の律令制の公地公民制が国家経営の中で逸脱して荘園化し私有制に戻って行ったように、土地国有を維持経営する管理機構の中で汚職や不正が蔓延して、再び土地ブローカーの不生産的寄食階級を発生させ構造化させるのではないかと悲観的に考えている。これは私の思考の老いであろう。司馬遼太郎の場合の土地国有論は、実はあの「武士の精神」論と思想的に連結しているのであり、新しい経済体制の担い手の問題として直結するのである。

不正をせず賄賂を取らない明治の日本人(武士の精神)に戻れと言っているのであり、日本人ならそれをよく経営できるはずだと信じ賭けているのである。土地国有とは単に制度や法律の問題ではなく、まさに内面の問題であり禁欲の問題である。公の問題である。全体を生かし全体の中の個体を生かすために私欲を禁ずる。公の精神を持った人間が制度の担い手にならなければならない。タヌキが木の葉っぱを持ってきて1万円ですと言えばそれを信じる(週刊朝日 96/3/1号)というバブルの呪術(それを信じれば自分が儲かる)から自由でなくてはならない。呪術を拒絶しなくてはならない。西欧プロテスタンティズムの倫理と同質の合理的で禁欲的な精神性を歴史的に獲得してきた日本人ならば、それが可能なはずだという司馬遼太郎の信念。

司馬遼太郎は、屡々、富士山の頂上を誰かが買い占めてそこに巨大建造物でも作ったら、国民の財産である富士山の景観は一体どうなるのだという話をしているが、今日の東京の景観を見ても、そこに若干の行政の規制の論理は垣間見えるとはいえ、基本的に都市計画は個別資本の私欲の自由の前に放置されている。土地利用は公共の景観などより資本の利潤衝動に奉仕させられたままだ。米国のような街の景観にならない。東京タワーは高層ビルの中に埋没して、景観どころかランドマークでさえなくなり、人々は時代が変わるんだから仕方ないと平然と受け流している。パリならあり得ない話だろう。街並は美しくならず、環境は住み暮らし働く人のためによくならない。西欧市民社会ならこんなことは絶対にないだろうと思うような途上国型の産廃問題で苦しんでいる。

土地問題は依然として近代日本の思想的課題である。ところでこの土地国有の思想だが、やはり講座派マルクス主義の影響という問題を考えざるを得ないだろう。土地を国有にすれば資本主義の中の不純物が取り除かれて、ピュアでスムーズで効率的な資本主義が実現するという考え方。レーニン以来の二段階革命論の機軸となる経済学理論だが、思想的系譜としては、土地国有論は日本ではマルクス主義者の基本理念であり基本政策であった。司馬遼太郎は歴史認識においては徹底的に闘争し、ある意味で生涯の敵対者であった思想的陣営の経済理念を、戦後日本の社会的現実の中で自ら基本思想として共有し、その理念の社会的実現のために孤軍奮闘したということになる。それも政治的に革新政党を支持して動くのではなく、体制の側の人間にその理念への同調を求めて奔走した。


梅原猛と司馬遼太郎

司馬遼太郎が死んだとき、最も多く追悼の辞を述べる機会を与えられた一人が梅原猛だった。年齢が近く、交際歴が長く、また司馬遼太郎を語るに十分の風格と地位を備えた思想界の大御所だったからである。二人はともに関西を拠点として活動する関西文化人であり、大雑把に言って、八十年代以前、戦後日本の思想世界における正統 - 東京大学・近代主義・市民主義・マルクス主義 - に対する異端でありプロテスタントとして同じ立場に立っていた。梅原猛は自らを哲学者と言い、司馬遼太郎は自らを小説家(書生)であると言い、もう一人の梅棹忠男は民族学者であったが、東京(中央)の正統方面から見た場合の三人の共通性はかなり明瞭であると言える。正統が崩壊して、嘗ての異端が主流になり、風格を漂わせた支配者となった。

この二人について考察するのは面白いし意義深い。中身のある本を書けば、中央公論社あたりから出版され、本格的なベストセラーになるだろう。梅原猛が本当のところで司馬遼太郎についてどう思っているのかはよくわからない。正統という敵に対しては頼りになる仲間であったに違いないが、梅原猛と司馬遼太郎は基本的な歴史認識で異なるスタンスに立って論争していたし、古代史や仏教論についても齟齬と角逐の機会がきわめて多かった。基本的に梅原猛はアカデミズムの人間であり、その経歴についての自負があり、小説家である司馬遼太郎に対して一段低い視線を送っていたのは事実だろう。日本の学問的正統性というメジャーで位置を測れば、正統社会科学と司馬遼太郎との間に京都学派が立つという配置になる。

二人の思想の最も重大な相違点は日本人の自己認識の問題である。梅原猛の自己認識と司馬遼太郎の自己認識。丸山真男は別格として、自己認識について言えば、今やこの二峰が高く聳え立っていて、殆んど三番目以降の説得力を寄せ付けない。まさに二人が日本の思想世界を支配していると言える。意味と解釈を日本人に提供する役割を二人が独占している。つまり現代の日本の標準であり教科書である。必読であり前提である。梅原猛は八十年代に日本の思想世界の支配者の地位に上り詰め、それ以後大御所として鎮座君臨し、司馬遼太郎は遅れて九十年代に日本の思想世界の最高指導者となった。二人がクロスして司馬遼太郎が日本の思想世界の首位に躍り出たのは、あの細川連立政権が誕生したときであったと考えている。

司馬遼太郎の文化勲章は細川連立政権の手で授与された。この問題(事件)についてはまた稿を改めて考えたいが、この時期を司馬遼太郎が頂点に立った時点とすれば、梅原猛が頂点に立ったのは、当時の首相であった中曽根康弘と連携して、京都に国際日本文化研究センターを設立した1987年であると言えるだろう。もし仮にそれ以前は誰が支配者だったのかと問われれば、丸山真男であると言うほかない。丸山真男と大塚久雄の二人の名を挙げるべきだろう。1945年から1980年頃までの長い長い30年間以上、丸山真男と大塚久雄が日本の思想世界を主導したと言うべきだと思う。八十年代に入り、近代主義とマルクス主義の説得力が急速に衰弱する中、一気に思想世界に台頭したのは梅原猛であり、その仏教論と日本人論だった。

梅原猛の日本人の自己認識とは、すなわち縄文文化論である。この議論はバブルとポストモダンの日本を席捲した。同時にそれは経済大国の自己認識の確立でもあった。戦後から高度成長期を通じて日本文化の原像とされてきた弥生文化に替わって、より自然的で感性的な縄文文化が日本文化の基層とされた。それまでの弥生文化を基調とした自己認識、すなわち器用な手先で黙々と生産し、集団の規律を守って協調的に労働し、生産物を節約して貯蓄する弥生人の表象から、自然に対峙するのではなく融和し、自由で芸術的な感性を持った縄文人という表象に自画像の意識的転換が図られたのである。その思想的主導者こそ梅原猛であり、要するに、意味として目的としては戦後の正統で主流の思想であった近代主義の否定であった。

司馬遼太郎と梅原猛の対立は空海論や古代日本仏教論など多岐にわたるが、最も大きな争点は日本人の原点を何処に求めるかという自己認識の問題であった。簡単に言えば、司馬遼太郎の思想史においては、関東で武士が成立する以前の日本の歴史は本来的な意味での日本史ではない。武士から日本の歴史が始まる。武士の精神こそが重要なのだ。それまでの日本史は、いわば中華世界の東端にある小周辺国の古代史である。開拓農民が武装自営するところから日本人が出発する。武士の精神のリアリズムが合理的精神と科学的技術を蓄積準備し、幕末の対外的危機を突破して国民国家(明治国家)を創生するのが司馬遼太郎の物語(自己認識)であり、すなわち着目点、日本人の原型の置きどころが梅原猛とは決定的に異なるのである。
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『坂の上の雲』と日露戦争 - 歴史認識
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