『坂の上の雲』と日露戦争 - 歴史認識

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『坂の上の雲』を読んで『坂の上の雲』には圧倒的に感動させられる。日本近代の青春の叙情詩であり、まさに民族の叙事詩と呼んでもよい長編。多くの者が人生の一冊として挙げる司馬遼太郎の代表作。司馬遼太郎はどこかで、人生において何事かを成し遂げる体力が残っているのは四十代までであり、その四十代を費やして自分は『坂の上の雲』を書いたと語っている。議論は様々に続くだろうが感動は永久に残る。そして感動と興奮が個々の口から語られ、新しい読者の中で繰り返し感動が再生産されて行くだろう。この小説が三十年後、五十年後にどのように評価されているかを想像すると若干怖い気もするが、少なくともその間は、日本人の読書世界の枢要な位置を占め続け、そして熱く議論され続けるのに間違いない。

歴史として面白く読めるのは当然のこと、戦史あるいは軍記として堪能することができる。明治文学の初期世界の情景をよく提供する文学史でもあり、そして多くの読者にとってこれは組織論の書でもある。いろいろな読み方があると思うが、平均的なところで言えば、この小説は三十代に読んで最も面白いものではないか。二十代の『竜馬がゆく』の最適年代だと少し若すぎる。人によっては面白く読めない可能性がある。朝から晩まで組織で激務をこなしている三十代の者が、往復の電車の中で文庫版を一冊ずつ読み進み、読み上げるものだ。将来の役職は未だ定まらぬとして、実務の上では中堅として現場を動かしているような者が、この小説の世界に最も興奮し没入することができるように思われる。

組織の中に『坂の上の雲』の戦場の風景を見、現地軍司令部と東京大本営との指揮命令系統の混乱を見、人事の軋轢と錯誤に憤慨し、人間のドラマが事業の成否を決する物語の行方に手に汗を握るのである。組織で事業をやっている以上、相似形の小世界はそこら中にある。多くの場合、無能な司令官や上官を戴けば、兵は無謀な突撃を強いられて犬死の憂き目に遭う。意味の無い派閥争いに巻き込まれて奉仕させられたり、成果の見込みのない無駄な業務に身を磨り減らされて、働き盛りの人生を犠牲にしなければならない。多数は兵として死ぬ。競合他社に負ける。新橋の居酒屋で三十代の男たちが『坂の上の雲』を語るときは、自らの周辺の伊地知正治や乃木希典を嘆き、俺が上に立てば児玉源太郎のようにやってみせると痛憤するのだ。

小学生に戻った気分で、素朴に『坂の上の雲』の感想文を試みてみたい。幾つかある。誰も同じ体験を持つに違いないが、最終章を読み終えた直後の感動の深さと重さは言い様のないもので、興奮の余韻が長い間持続する。その余韻は耳の奥で鳴り響いてくる重低音の音響であって、それは対馬沖の三笠やスワロフから打ち響いてくる砲撃音そのものなのだ。ゴーン、ゴォーンと反復して余韻が鳴り響くのである。その余韻の中で、あの長い『坂の上の雲の』の「あとがき」を一気に読んでゆくのだ。頭の中では艦砲射撃とそれが海面に落下して飛沫を上げる轟音が響いている。雨雲に覆われた暗鬱な対馬の海の上、波濤に揺られる暗い鉄の艦内で、男たちが無言で砲撃を続けている。そういう情景が浮かぶ。

砲弾が艦橋に飛来し炸裂して、飛び散った鉄片が肉体を引き裂き、男たちが無言で死んでゆく。人の喚声は無い。日本海海戦の荘厳な実況。そう言えば、塩野七生の『レパントの海戦』のクライマックスシーンが似た感じを出していたが、迫力と感動の大きさで比較にならない。男たちは全艦撃滅の意志を機械のように運動させて砲撃を尽くし、砲撃が終わり、海戦が終わったところで蛻の殻のようになっている。魂はすべて海の上に落ちて沈んで消えた。魂のない表情のない抜け殻だけが勝者として残った。日本海海戦のモノトーンの世界が暗鬱な濃いグレーから明るいグレーに変わり、しかしそれは燃えつきて灰になった明治国家の姿であり、明治の精神の灰のグレーなのだ。武士の精神は砕け散って死に絶えるのである。カタルシス。

感想のもう一つは、それを最初に読んだのは今から14年前(90年)だったが、やはり歴史認識の問題で、例の日露戦争は帝国主義の侵略戦争なのか、それとも近代国家の祖国防衛戦争なのかという論争に関してだった。この小説を読むということは、当然、その論争の中に自分自身を置くということを意味する。司馬遼太郎の結論は初めから承知していたことで、それは世人が喋々していることで、そして自分にはそれとは異なる歴史的知識の前提がある。小説を読むのだから、さほど強く意識しなくてもとは思ったが、それが自分を試す結果になるのは読書の前からそれなりに自覚していた。果たして、司馬遼太郎は想像した以上に、強烈に私に対して歴史認識の変更を迫ってきたのである。私は私なりに考え、答えを出さずにはいられなかった。

----『坂の上の雲』の歴史認識 (1) - 「雑貨屋帝国主義」論

私は日露戦争の歴史認識の問題についてどう答えを出したのか。高校の歴史の授業で近代史を習ったとき、日露戦争は、当時の世界史におけるボーア戦争などと並んで、同じ帝国主義戦争の一つとして説明されていた。帝国主義国となった日本が資本輸出を動機として朝鮮半島から満州平野に武力で侵出、同じくその地域を植民地化しようと南下してきたロシアと衝突して起こった戦争という定義である。現在の高校の歴史授業の現場でどのように教えられているか知らないが、基本的にこの定義に変更はないのではないか。経済学の概念である帝国主義論の近代史に適用した歴史認識であり、多少古い感じはあるが、わかりやすい説明であると言える。最近、ではなくずっと前から、保守系の論者によって蛇蝎の如く嫌われ、袋叩きにされている歴史認識でもある。

司馬遼太郎はこの定義に対して、正面から否定する立場に立っている。『この国のかたち』の冒頭部分に「雑貨屋の帝国主義」という章があり、次のように書かれている。「このモノの四十年間の活動は、いうところの帝国主義であったのか、と問うと、《ちがう》と奇声に似た高い声がかえってきた。(略) 外国からみれば形としては帝国主義の雛形に入るが、内実は帝国主義ですらなかったように思われるのである。二十世紀なかばまで、諸家によって帝国主義の規定やら論争やらがおこなわれたが、初歩的にいえば、商品と資本が過剰になったある時期からの英国社会をモデルとして考えるのが常識的である。過剰になった商品と、カネの捌け口を他に得るべく(略)公的な政府や軍隊をつかう、というやり方..(略)。
しかしその当時の日本は朝鮮を奪ったところで、この段階の日本の産業界に過剰な商品など存在しないのである。朝鮮に対して売ったのは、(略)日用雑貨品がおもなものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるだろうか 
(第1巻 P31-32)。 
こう言うのだが、一読して率直なところ、上の表現は意図的に経済学の基本的な議論を無視もしくは歪曲しているか、そうでなければ無知を標榜した修辞で読者を欺冒しているのではないかという印象を受ける。帝国主義論についての社会科学的な知識が無いわけではないことは、英国の帝国主義の型(資本が内部に充満した後に外に膨張する)を帝国主義のモデルとして考えるのが常識だとする主張からも頷ける。

帝国主義に様々なバリエーションが存在するのは、ほぼ周知の事実であり、司馬遼太郎が言うようなモデルを示すのは英国のみ、もしくは英仏二国のみであろう。遅れて世界分割する列強に参入したドイツの帝国主義やロシアの帝国主義には、後発帝国主義としての共通した構造性があり、それは日本の帝国主義にも共通した特徴であると言われている。すなわち軍事的で半封建的な資本主義の特徴であり、農奴制(露)、地主貴族制(独)、寄生地主制(日)といった、いわゆる封建遺制を内包した資本主義では、英国のモデルのように限度まで国内で資本増殖した後で海外に資本進出するパターンにはならず、先に軍事的に海外を侵略して植民地を奪い取り、国内の脆弱な資本を発育させるために国家権力が市場と原料を調達してやる方式となる。

資本主義の先進国と後発国では帝国主義の型が異なり、したがってその運動の順序が逆になるのだ。下からの資本主義と上からの資本主義との相違。この辺りの議論は、いわゆる戦後社会科学の常識的なセオリーであり、その根源を辿れば講座派経済学と大塚史学に行き当たるという話になるだろうが、講座派経済学と大塚史学が思想世界で政治的な敗北を喫して信奉者を喪失したからと言って、直ちにこの歴史認識あるいは帝国主義論が無効になるものとも思えない。時代は変わって、帝国主義論も変容し、マルクス経済学の範疇を離れたところでの植民地主義や新植民地主義が論じられているが、19世紀末の日本が武力で朝鮮半島を植民地化したのは、やはり次の中国大陸(満州)へ侵略を進める橋頭堡という位置づけが最も妥当な観点であろう。

地政学的にも、朝鮮半島のみを真空地帯として保留したまま、満州に侵出して鉄と石炭を奪い取るという帝国主義の国家戦略はあり得ない。併呑するだろう。また司馬遼太郎は、朝鮮で雑貨だけをせっせと販売していたと言うが、歴史的事実は少し異なる。重要な事実認識が抜け落ちていて、すなわち総督府権力を背景にした日本人による詐取的な土地所有の問題であり、産業統制を初めとする植民地経済の体制化である。タオルやマッチだけを平和的に商売していたのであれば、これほど韓国朝鮮人から恨まれるはずはないだろう。日露戦争の結果、日本は最大の戦争目的(果実)であった朝鮮半島の排他的領有を得て、戦後速やかに植民地化した(韓国併合)。この歴史的事実は、日露戦争を帝国主義戦争の範疇から除外するのを永久に許さない。日露戦争を帝国主義戦争(植民地争奪戦争)でないという議論は全て詭弁だろう。 ----

『坂の上の雲』の歴史認識 (2) - 「日露戦争は避けられた戦争だった」
日露戦争は帝国主義国間の植民地争奪戦としての帝国主義戦争として認識するのが基本的に妥当であろう。だが、果たしてその側面のみが注目されるべきかどうか。『坂の上の雲』で言うところの祖国防衛戦争としての側面はどうか。この点について検討する必要があると思われるが、最近の歴史学、歴史研究の動向を見ても、この司馬遼太郎の観点を支持するところは少なく、むしろ逆に日露戦争は回避できる戦争であったという歴史的事実がより明らかにされつつある状況にある。戦前の背景や経過は別として、開始の瞬間を捉えれば、日本側が先に仕掛けた戦争であり、そしてその戦争が外交で問題解決できなかったとは決して言えないという歴史認識が強くなっているように見える。従来の日露帝国主義衝突必然論よりもヨリ細かな外交推移に密着した歴史研究の成果によるものらしい。

今年は日露戦争開戦百周年の記念年で、書店の店頭にも日露戦争に関する新刊が多く出版されて話題になっている。その中の一冊である新人物往来社の『歴史研究』上に載っている伊藤之雄の『日露開戦への道』を読むと、外交努力によって回避可能であった日露戦争の歴史的性格が浮き彫りになっている。1900年に起きた義和団の乱の鎮圧の後で、列強の中でロシアのみが満州に駐兵を維持し、その撤兵を厳しく要求する日本との間で不穏な情勢となる。その後、1902年、日本は英国との間で日英同盟を結び、国策をロシアとの対決方針へと傾けて行くが、それでも日露外交交渉の過程では有力な問題解決案として満韓交換論が浮上し、その基本線で両国が合意することが十分可能だったという研究である。特にロシア側はその妥協点が対日外交の基本線だったようである。

伊藤論文では、冒頭、次のように書かれている。「司馬遼太郎は『坂の上の雲』二巻(文藝春秋、1969年)の中で、日露戦争前の日本とロシアの動向を比較している。その上で「ロシアの態度には弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死に追いつめていた」「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない」等と、当時のロシアの動向を一方的に批判している。こうした司馬の見方は目新しいものではない。(略)しかし、公開されるようになった新史料を十分に検討すると、以下で述べるように、日露戦争が避ける可能性もあった戦争であることが見えてくる」。(『歴史読本 44ページ』)

また、日露戦争研究者として有名な大江志之夫は、最近出された『日露戦争スタディーズ』(紀伊国屋書店)の中で、『必要のなかった日露戦争』と題して次のように書いている。 「こうして、ロシア皇帝の韓国を日本の勢力圏として承認するという勅命も、満州の大部分からロシアの政府も軍も手を引くという提案も、日本の政府に伝えられることなく、日本は主観的な危機感だけから、あの大戦争を決定し、実行に移してしまった。明瞭な事実をいうと、日露戦争開戦前、ロシアは韓国侵略の意図をまったくもたず、むしろ南満州からの全面撤退をしてでも日本との戦争を回避したかったのである。それは急速に高まりつつあるヨーロッパ情勢の緊張のためであった。クロパトキンが命じられていた戦時職務はオーストリア戦線方面最高司令官であって、満州軍総司令官ではなかったし、ロシア陸軍は対日戦争の準備も研究もしていなかった。」(『日露戦争スタディーズ 21ページ』)

読者としては、一次史料に就いて当時を綿密に検証する能力もなく、こうして学界から提供されてくる議論を見て何かを考えるしかないが、ひとまず、上の議論は歴史学的な最新研究としての説得力を感じさせられるものである。『坂の上の雲』では、戦前ロシアの描き方として、ニコライ皇帝の人種蔑視的な傲慢な態度のみが前面にで出て強調され、ウィッテら官僚側の国家経営の論理や現実が背景に退いている。ロシアが戦争準備をしていなかったという事実一つを取っても、ロシア側が日本との紛争を外交で解決するべく模索していた証左であり、ロシア帝国主義の南下政策によって日本が一方的に追い詰められ、民族と国家の存亡の危機にあったという歴史認識は正確なものとは言えないだろう。満韓交換論をめぐる外交経緯についても十分に説明されているとは言えない。

この「日露戦争は回避できた」歴史認識については、上の本の編者である成田龍一が、本の冒頭の小森陽一との対談の中でも少し触れているが、やはり昨年のイラク戦争の問題と無関係ではないように思えてならない。上の歴史認識が説得力を持って迫るのは、イラク戦争の開戦前の刻一刻の国際政治を我々が生々しく記憶していて、戦争というものは必ず外交で回避できるし、回避しなければならないものだという強い印象と確信を持ったからに違いない。戦争をするのは権力者の意志であり、どのような美名を蓋い被せても侵略戦争は侵略戦争でしかない。犠牲にさせられるのは、戦場となった地域に暮らす弱く貧しい人々である。市井の者ならば反戦で当然であって、権力者でも支配者でもない人間が、自国の軍隊を海外派遣するのを喜んで見ているのは異常であるのに違いないのだ。

『坂の上の雲』の歴史認識 (3)
最近の歴史学研究の議論を要約して言えば、日露戦争は両国の外交と妥協によって十分回避できる戦争だった、それができなかったのは双方に事情があり、双方が互いの内情をよく掌握できていなかったからだということになる。平和の歴史認識、平和主義の歴史認識と言える。ただこの歴史認識の説得力の前提として考えるべき観念的な条件がおそらくあって、それは我々が生きている国際社会というものが、二度の世界大戦を経て、国連の組織と安全保障体制が確立され、国際法上も当時と較べてはるかに国家間の戦争に対して抑止的で拘束的な世界が構築されているという現実である。現在は百年前の世界のように国家は自由に戦争できない。戦端を開く前に国際社会の干渉が入る。当時はそうでなく、戦争が国家間の紛争解決の第一手段として前提されていた。

現在の国際社会の前提的な観念をそのまま横滑りさせて、当時の日露外交を検証してはならないだろう。開戦前、日本は外交要求への回答が遅れるロシアの態度を疑い、戦争準備のために時間稼ぎをしていると判断、奇襲作戦に踏み切ったのだが、実際にはその判断は誤りで、返答に時間を浪費したのは、ロシアの意思決定機構が時間がかかり過ぎる体制だったためである。現在のような緊密な国際社会の関係空間があり、暇さえあれば政府首脳が相互往来する国際慣習が定着して、海底ケーブルや衛星通信のブロードバンドテクノロジーがあったなら、日露戦争は回避できていたに違いない。日本は武力を用いずに朝鮮半島の排他的領有を達成していただろう。日本の側に猜疑心や神経過敏や脅迫観念の要素があり、ロシア側に鈍感と前近代的な国家機構の放置がある。

だがそれは今だから言えることで、当時はそれがギブンである。弱小国の恐怖心が、大国の威圧を前に、とても対等外交での局面打開に自信を持てず、外交での優位を得るがために、目標と成果を狙い定め、大国(英国と米国)の側面支援を期待して、短期の軍事作戦に踏み切ったと想像すべきだろう。国際情勢的には、英国は自らの代理威力として日本の軍事力を利用してロシアの極東進出を牽制抑止しようとする意図があり、それは米国も積極的に後押しすべき国家利害を持つイシューであり、大きく見れば、多少語弊はあるが、大国の世界分割と勢力均衡のパワーポリティックスの中の代理戦争の要素があり、また世界戦争の危機を孕む冷戦構造(英米vs仏独露)の中の極東版熱戦の要素があった。日本はあくまで弱小な新興国で、ロシアとの戦争は挑戦であった。

我々はその前提をつい忘れて、当時の日本とロシアの関係に現在の対等な国家関係を被せてしまう。経済大国の自意識で歴史を見がちになる。当時の国家も国民も、大国としての自意識などあろうはずもなく、関税自主権すら未だ完全でないアジアの二等国であった。危機意識と緊張感は推して測るべしだろう。代理戦争を自ら買って出ることで、世界の冷戦構図を巧く利用することで、極東の一勢力を保全しようとしたのであり、国際社会の中で近代国家としての独立的地位を獲得しようとしたのである。英国の世界戦略の一部となり、言わば極東方面軍の手足となって、大国ロシアに引き金を引いたのだ。桂太郎・小村寿太郎の主戦論は英国の世界戦略の中に日本の生き方を見出す方向であり、伊藤博文の和平論はロシアと平和共存して国際社会で独立する路線である。

これを祖国防衛戦争と呼ぶには、あまりに祖国防衛的な要素や環境の事実がない。小説であるから、ニコライの人種差別とロシアの膨張主義を極端に強調しても咎めを受けないが、歴史研究(歴史学)となれば、そのような飛躍は許されない。シムシュ島にロシア兵が上陸占拠したとか、対馬沖のロシア艦隊が示威演習を繰り返したとか、鴨緑江の国境沿いに大規模に兵力が集結させられたとか、そういう情勢がなければ、祖国防衛戦争の表象は説得的なものにはならないだろう。帝国主義時代のロシアが北清事変に乗じて南下して満州を占領し、さらに朝鮮を窺う気配を見せたとしても、侵略の鉾先は朝鮮半島であって直接に日本列島ではない。日露戦争が勃発しても、戦場は満州であり、争奪しあう戦果は朝鮮であり、ロシアに日本を占領する意志は絶無だったのだから。

仮に敗北したとしても、日本がロシアの占領統治下に入る事態はまずあり得ず、これを民族滅亡の危機と呼ぶのは、歴史認識としてあまりに表現が過激と言わざるを得ない。日露戦争を祖国防衛戦争と呼ぶためには、日清戦争の戦果として獲得したテリトリーである朝鮮半島を「祖国」の中に含めなければならない。司馬遼太郎が日露戦争を祖国防衛戦争と呼ぶ場合は、日清戦争の戦果、すなわち朝鮮半島の勢力圏が祖国の内部に含まれるのである。そこを侵されることは祖国を侵略されるのと等しいのだという言説。つまり朝鮮半島は司馬遼太郎の言う明治国家の内部なのであり、明治精神(リアリズム)の達成の一部であり、他の侵略を許すべからざる聖なる身体の一部なのだ。司馬遼太郎の祖国防衛戦争の概念にはその意味が含まれている

『坂の上の雲』の歴史認識 (4) - 革命の輸出
歴史認識というのは、あくまで認識する個々の人間の判断と責任の問題であり、一つの歴史に対して幾通りもの歴史認識があり、同じ人間が一つの歴史に対して、生涯に何度も歴史認識を変える。一つの歴史認識は別の歴史認識の挑戦を受け、やがて時代の流れの中で動揺し変容し、主流から野党の地位に下がったりする。思想世界から死滅しそうになったり、そうかと思えばいつの間にか若々しい生命力を得て甦ったり、そして再び王座に返り咲いたり、そうしたことを繰り返す。客観的科学的普遍的固定的なものとして与えられているのではなく、絶えず揺れ動き鬩ぎあっているものであり、個人が自分の意思と判断で選択するものだ。日露戦争と近代日本の歴史認識も同じであり、司馬遼太郎や歴史学に学びつつ、最後は自分で自分の歴史認識を選ばなければならない。

私はどのように歴史認識するのか。私の場合は、それを祖国防衛戦争と規定するのには躊躇がある。たとえ日清戦争の戦果がクリスタルな明治国家の神聖な一部であったとしても、帝国主義のテリトリーを防衛する戦争を祖国防衛戦争と呼ぶ議論には直ちに同調できない。その議論を延長すれば、満蒙は日本の生命圏と嘯いて満州や華北を侵略した昭和の陸軍と同じ論理的立場になり、司馬遼太郎の明治国家と昭和国家の区別(対照性)は忽ち曖昧なものになってしまう。昭和の軍人を批判する視座を失う。だが、言葉は適当でなくても、祖国防衛戦争的な内実はやはりどこかにある。明治国家防衛戦争と呼び直すと少しは納得できる表現になる。私なりの表現で最も正鵠を射た表現と思われるのは、すなわち革命防衛戦争である。日露戦争は明治維新を抜きに考えられない。

その視点で司馬遼太郎と同じ立場に立つ。私は、日清戦争と日露戦争を、フランス革命(ナポレオン戦争)におけるドイツやスペインへの侵略戦争と同じ目線で見るのであり、したがってそれは革命の輸出であり、侵略戦争である。帝国主義戦争としての日露戦争の性格の中に、日本から見た場合には、革命防衛戦争の要素があり、革命の輸出の契機が見出されると言えるのではないか。そのような見方をとる。ナポレオンによる周辺諸国への侵略戦争も、一面において封建制からの解放の要素があり、旧体制を解体して新興市民階級を社会の担い手に据える革命権力の役割を果たしたと評価されている。ナポレオンの帝国主義は、結局は諸国市民のナショナリズムによって排撃されるのだが、当初のナポレオンが解放軍として迎えられた意義は小さくない。

明治維新とフランス革命は違うし、時代背景も異なる。革命の原因も目的も異なり、革命を担った社会階層も異なる。同じ理論的枠組で捉えることは難しい。だが、革命によって新しいネーションステートとして生まれ変わった国民が、興奮とエネルギーを帯びたまま国境線を突破、新体制と新文化を隣国に布教、強制しようとした衝動という観点で見れば、それは、古今、様々な諸国で繰り返し見られてきた歴史的現象でもある。革命のエクスパンション。革命の空間的拡大運動としての帝国主義的膨張の論理。革命の生理として、革命権力が新政権を樹立し、国家建設を推し進めるとき、新たに国民そして統合された人々は、革命国家の防衛に対して過剰な危機意識を持ち、対外的緊張感が国民全体を包摂する。ナショナリズム。そして兵士となって武器を手に国境の外に出る。

そういう意味において、日露戦争は明治革命防衛戦争であったと言えるのではないか。従軍した将兵個々の意識としては、概ねそのようなものではなかったか。また日露戦争は日清戦争のそのまま延長線上にあり、日清戦争は征韓論の延長線上にある。征韓とは、かつて自らがペリーの黒船によって経験させられたところの砲艦外交の開国要求であり、文明開化と不平等条約の押し付けであり、先に文明を手にした者の優越感の確認であり、まさに革命の輸出の生理そのものだったと言えよう。征韓論から日露戦争への思想史の流れは、より精密かつ慎重に検証しなければならないが、そもそもの出発点であった植民地化の恐怖の突破という危機意識がエネルギーとなって、列強の世界分割が刻々と進む東アジアの中で、一直線に半島へ噴出して行ったということだろう。

最初は新文明を共有して同盟する東亜の僚友であったはずのものが、85年の福沢諭吉の『脱亜論』(「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を持て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし」)を経て、日清戦争の獲得物として一方的にコントロールする対象となり、帝国の大陸侵略の前線基地となり、植民地となって併合される。革命防衛戦争と帝国主義戦争の二重性を持った戦争としての日露戦争。革命の輸出としての侵略。独立の維持としての世界分割競争への参加。そのような思想的性格のものとして日露戦争(日清戦争)を捉えることができるのではないか。中途半端な考え方かも知れないが、最近はそのように考えている。無論、産業資本確立のための本源的蓄積という経済学的な視角もなお有効であろうと思われるが。       ■

司馬遼太郎の思想について - 鎮魂と省察
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