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2010年7月20日 (火)

学問の退廃とマスコミの劣化―毎日新聞掲載「伊藤博文と韓国併合」上下を読む 梅田 正己(高文研顧問)

若い市民のための新パンセ(2010年06号) より転載

来たる8月22日は「韓国併合」条約調印からちょうど100年の日となる。
 その日を前に、毎日新聞は「伊藤博文と韓国併合」の標題で、7月13日と14日の夕刊文化欄に2人の歴史家の寄稿を掲載した。
 まず13日は伊藤之雄(ゆきお)京都大学教授(日本近現代史)、翌14日が月脚(つきあし)達彦・東京大学准教授(朝鮮近代史)である。
 ここでは伊藤氏の主張について検討する。

■伊藤博文は韓国の「近代化」をめざしていたという説

 正確を期するために、まず伊藤氏の文章を引用し、その上で私の意見を述べる。
 伊藤氏は「一次資料を新しく使って、私が導いた結論」として次のように書く。

 ①「伊藤(博文)は、帝国主義の時代の列強の国際ルールに制約された韓国統治を行った。そのルールとは、自国を防衛する力がない国は侵略されても仕方がないというものである」
 ②「伊藤は、日露戦争が起きた一因は韓国が不安定だったからだと確信し、韓国は独力では独立を維持するのが困難だと判断した。そこで日露戦争の直後の1905年、韓国に統監として赴任、日本の強い指導と援助の下で韓国の近代化を達成し、日本の安全保障と韓国の独立を保持しようとした」
 ③「それに対し、韓国皇帝高宗(コジョン)はオランダのハーグで開かれた国際平和会議に密使を送り、07年6月に日本の行為が不当だと訴えたが、どの列強も相手にしなかった」
 ④「伊藤博文は韓国併合に反対であり、韓国国民に帝国主義の時代の厳しさを知らしめ、その自発的な協力を得て韓国を近代化させようとした」
 ⑤「しかし彼の統治は韓国国民の支持を得られず、09年4月に賛成せざるを得ないと決意するに至った」
 ⑥「しかし併合後も、朝鮮に朝鮮人の『責任内閣』と植民地議会を置く形で、ある程度の『自治権』を与え、朝鮮の人々と対話を続けていくことが大事だと考えていた」

 以上、①~⑥は原文のままであり、途中省略はしていない。
 一読して、何かヘンだと感じられなかっただろうか。
 まず①である。
 伊藤は「自国を防衛する力がない国は侵略されても仕方がない」という「国際ルール」に「制約され」、「韓国統治を行った」と書いている。
 当時の帝国主義の「ルール」を「利用して」、あるいは「依拠して」と言うのならわかる。しかし侵略を当然視した国際ルールに「制約され」て、他国を支配したというのはどういうことか? 不可思議な文章ではないか。

 次に②。「日露戦争が起きた一因は韓国が不安定だったからだ」と伊藤博文は確信していた、と伊藤氏は書いている。
 「歴史家」を名乗るものが、何を言っているのだろうか。
 日露戦争を終結させるための日露講和条約(ポーツマス条約)の第二条(第一条は形式的な精神条項だから、これが実質的な第一条)にはこう書かれていた。

 第二条 ロシア帝国政府は、日本国が韓国において、政治上・軍事上および経済上、卓絶なる利益を有することを承認し、日本帝国が韓国において必要と認める指導、保護および監督・管理の措置をとるに当たり、それを阻害したり干渉したりしないことを約束する。

 つまり戦争に敗れたロシアは、以後、韓国(朝鮮)における日本の「政治上・軍事上および経済上の卓絶なる利益」を認める、と言っているのである。
 日露戦争は、朝鮮に対する独占的支配を、日露のどちらが取るか、を第一の目的とした戦争だった。その結果、日本が勝ち、今後の韓国に対する「指導、保護、監督・監理」いっさいをロシアは認めるということを、講和条約の第一番目に双方で認め合ったのである。

 「日露戦争が起きた一因は韓国が不安定だったからだ」と伊藤氏は書いていた。
 たしかに、韓国の状態は「不安定」だった。なぜなら、日本とロシアがその支配権を奪い合っていたからだ。つまり韓国の「不安定」は、ロシアと、そして日本帝国自身がつくりだしていたのだ。

 自ら独立の基盤を突き崩しておいて、「韓国は独力では独立を維持するのが困難だと判断した」から、伊藤博文は、日本の強い指導の下で「韓国の独立を保持しようとした」と考えた、とこの②で伊藤氏は述べているのである。
 こういう“論理”を、何と言ったらいいのだろうか。

 国の「独立」とは何か。広辞苑ではこう書いている。
 「国が、その権限行使の能力を完全に有すること」
 では、第二次日韓協約(1905年11月、先のポーツマス条約の3ヵ月後)で伊藤博文が統監に就任した後の韓国の「独立度」はどうだったか。
 第二次日韓協約の第一、二条はこうである。

 第一条 日本の外務省は、今後、韓国の外国に対する関係および事務を管理・指揮する。
 第二条 韓国政府は今後、日本国政府を通さずに外国との条約あるいは約束を交わすことはしない。

 国際社会において、他の国と対等に交際し、発言し、約束を交わすことのできない国、そんな国を「独立国」とはいえない。
 外交権の剥奪は、国家にとって最大の恥辱といえる。
 だからこそ、韓国皇帝は、伊藤氏が③に書いているように、日本の不当を訴えるために、ハーグの国際会議に密使3人を送った(07年6月)。しかし各国はその訴えを黙殺した。そのため密使の一人は自ら命を断って憤死する。
 ところが伊藤氏は、例の「国際ルール」を当然と認めたように、ここでも韓国皇帝の必死の訴えは国際常識に反してでもいたかのように、「どの列強も相手にしなかった」と、さらりと書いてすましている。

 しかし現実の伊藤博文は、この韓国皇帝の抵抗に、不安と危険を感じ取る。
 そこで高宗皇帝を退位させ、皇太子を帝位に就けるとともに、李完用内閣に迫って第三次日韓協約を結ぶのである(07年7月)。

 この第三次日韓協約について、伊藤氏は全く触れていない。
 しかしこれこそが、「併合」条約以上に決定的な条約であった。
 一般にはあまり知られていないので、第一条から六条までを紹介する(三条は略)。

 第一条 韓国政府は施政改善に関して統監の指導を受けること。
 第二条 韓国政府が行なう法令の制定および重要な行政上の処分は、あらかじめ統監の承認を得ること。
 第四条 韓国高等官吏の任免は、統監の同意を得て行なうこと。
 第五条 韓国政府は、統監の推薦する日本人を官吏に任命すること。
 第六条 韓国政府は、統監の同意なくして外国人を雇ってはならないこと。

 韓国政府は、政策決定から法令の制定、行政処分、高級官吏の任免、日本人官僚の任命まで、いっさいを「統監」の指導・承認の下に置くこととしたのである。
 「統監」の同意がなければ何もできないという、いわば政治の禁治産者状態である。もはや「独立」などはどこか遠くに消し飛んでしまった。
 しかもこの上に、「不公表」の覚書を結んで、裁判所と監獄を設置するが、そのトップはすべて日本人が占めることとし、さらに極め付け、韓国軍隊を「解隊」させたのである。

 以上の協約を、「統監侯爵 伊藤博文」は、「内閣総理大臣 李完用」との間で結び、調印した。
 (以上の第三次日韓協約の全文はインターネットで「第三次日韓協約」と打ち込めば直ちに出てきます。確認してみてください。)

 反戦の川柳作家、鶴 彬(つる・あきら)の作品に、

手と足をもいだ丸太にしてかへし

 というのがある。たしか日中戦争時代の作品である。

 日本は、第三次日韓協約によって、韓国をいわば「手と足をもいだ」状態にし、その上で「併合」した。
 1910年の「併合」は、植民地化完了の「儀式」でしかなかったともいえる。
 その証拠に、「韓国併合に関する条約」は全8条からなるが、第一条で韓国皇帝が韓国を「譲与」し、第二条で日本国皇帝がそれを「受諾」すると述べているほかは、併合後の韓国皇室・皇族の処遇などについて述べているだけで、統治に関する事項について具体的にはまったく触れていない。

 実質的には、日本は第三次日韓協約によって韓国を完全に自国の支配下に組み込んだ。その第三次日韓協約を結んだ日本側の代表が、伊藤博文統監だったのである。
 このことは、インターネットをちょっとのぞいただけで分かる。
 以上の事実に照らせば、伊藤氏の
 ④「伊藤博文は韓国併合に反対であり、韓国国民に帝国主義の時代の厳しさを知らしめ、その自発的な協力を得て韓国を近代化させようとした」
 といった伊藤博文に対する弁護がいかに空々しいものであるかは、中学生にもわかるだろう。

 まして、行政、司法、警察、外交権をすべて奪い、軍隊を解散させてしまった国の人々に対して、伊藤は、⑥「併合後も、朝鮮に朝鮮人の『責任内閣』と植民地議会を置く形で、ある程度の『自治権』を与え、朝鮮の人々と対話を続けていくことが大事だと考えていた」などと言うのは、人をバカにした、おためごかし以外の何ものでもない。
 「政府」を失った韓国人たちが、武器を取って命を的に立ち上がった義兵闘争を、この歴史家はどう見ているのだろうか。

 だいぶ長くなったが、私が述べたことを箇条書きにすれば、次のようになる。
 (1)日本は、日清戦争で清国を破り、つづく日露戦争でロシアを破って、韓国に対する独占的支配権を確保した。
 (2)その上で1905年、第二次日韓協約で韓国の外交権を剥奪し、伊藤博文が初代統監に就任、以後の対韓国政策を中心になって推進した。
 (3)統監・伊藤は、07年、第三次日韓協約を強制締結し、外交権につづいて行政、司法、警察権を掌握し、軍隊を解散させた。これにより、韓国は実質的に日本の支配下に完全に組み込まれた。
 (4)1910年、日本は韓国を「併合」した。しかしこれは植民地化の完了を世界に表明した「儀式」にすぎない。
 (5)以上に見たように、「実質併合」の主役は伊藤博文にほかならない。それなのに、④「伊藤博文は韓国併合に反対であり、韓国国民に帝国主義の時代の厳しさを知らしめ、その自発的な協力を得て韓国を近代化させようとした」などというのは、人をあざむく欺瞞と言うしかない。

■学問における「退廃」について

 以上の「引用」と説明から読み取れるように、この寄稿文で伊藤之雄氏が主張しているのは、伊藤博文がめざしていたのは韓国の「近代化」であり、「近代化」を進めることによって国力をつけさせ、それにより「独立」を維持させることだった、ということだ。
 したがって文章のタイトルも、「近代化による韓国独立保持を意図」となっている。

 伊藤博文が本当にそのような人物だったとしたら、彼は“韓国を滅ぼした帝国主義者”とは正反対の“韓国の「近代化」と「独立」をめざした恩人”ということになる。
 まさに180度の転換である。

 しかし、第三次日韓協約によって韓国を実質的に植民地化し、その条約に「統監侯爵 伊藤博文」と署名して押印したのは、博文その人にほかならなかった。
 「独立」を奪った張本人に対して、いや本当は「独立を保持」しようとしていたのだ、と伊藤氏は言う。
 こういう言説・考え方は、学問にとってどういう意味を持つのか――。

 他国、他民族の土地を植民地化するということは、そこに住む人間(民族)の誇りを打ち砕き、アイデンティティーを破壊することである。
 それがどんなに耐え難いことであるかは、自分たちの国(土地)に外国人がやってきて、行政・産業・司法・警察・軍の要職を独占し、自分たちを支配・命令することを考えれば、すぐに分かることである。
 その非人間性ゆえに、現代においては植民地化は認められないし、許されない。

 この認識は、20世紀後半に至って、ようやく人類が全世界的に到達した認識である。
 それは、1960年「アフリカの年」に国連総会で採択された「植民地独立付与宣言」に象徴的に示されている。
 学問研究においても、植民地問題を対象にすえる際は、この認識をつらぬかなくてはならない。

 この認識をつらぬくために欠かせないことは、植民地化「される」側の視点に立つことである。
 外国人に支配され、人間的・民族的誇りを打ち砕かれる側に立ち、想像力によってその痛みを共有することである。
 この視点と想像力を失ったとたんに、植民地論は「植民地政策論」ないしは「植民地経営論」にすり変わる。
 つまり、遅れた未開の人々を文明化するためには文明国の手助けが必要であり、そのためには現地の人々に代わって文明国が統治を引き受けるのが有効かつ近道だ、といった類の「植民地正当化論」「植民地合理化論」だ。

 「伊藤は……韓国は独力では独立を維持するのが困難だと判断した。そこで……日本の強い指導と援助の下で韓国の近代化を達成し、日本の安全保障と韓国の独立を保持しようとした」
 この論理はまさしく「植民地合理化論」の論理にほかならない。
 そしてこの「植民地合理化論」に立っていたとして伊藤博文を再評価する伊藤之雄氏もまた、この「植民地合理化論」に立っているということだ。

 戦争の問題を考えるときは、戦争のもたらす惨禍のことを常に念頭に置くこと。
 同様に、植民地問題を論じるさいは、常に植民地化「された」側からの視点を忘れないこと。
 この基本的な構え・スタンスを失ったとき、その戦争論は、学問研究の形をとりながら戦争を認める側・戦争を「する」側の戦争論となり、その植民地論は植民地化「した」側の植民地論となる。
 私の目には、学問の「退廃」の始まりと映る。

 ところがこれは、伊藤之雄氏ひとりの問題ではなかった。
 伊藤氏の翌日、毎日新聞夕刊に掲載された月脚達彦氏の寄稿の中にも、次のような一節が書かれていたのだ。

 「近年、日本近代史研究者の間では統監伊藤は韓国併合推進論者ではなかったとする評価が優勢になりつつあり、朝鮮近代史を専門とする筆者も、伊藤の保護国支配に対する大韓帝国側のさまざまな対応を見る中で、そうした評価を基本的には受け入れている」

 この国の学問(歴史学)の世界で、何か恐ろしいことが起こりはじめているのではないか? 不安はひろがるばかりである。

■ ウソと事実の見分けがつかないマスコミ

 不安は学界だけではない。
 伊藤氏につづいて月脚氏に寄稿を依頼した毎日新聞にも問題を感じないわけにはいかない。 

 日本による「韓国併合」は、東アジア近代史上の画期的な事件の一つである。
 その「韓国併合」について、従来は伊藤博文がその主役と見られてきた。
 ところが近年、そうではなく、伊藤は韓国の独立を保持しようとしていたのだ、という説が出てきた。その代表が伊藤之雄氏で、続いて登場した月脚氏も同じ新説の持ち主であった。

 毎日新聞は、どうして伊藤を弁護する新説の持ち主をつづけて起用したのか?
 なぜ、それと対立する従来学説の研究者を登場させなかったのか?
 新説と従来学説、その両方を読者に示して判断材料を提供するのが、アジェンダ・セッティングの役割を持つ公共財としての新聞のやり方ではないか?
 今回の寄稿者設定で客観的な印象として残るのは、毎日新聞もまたこの新説を支持しているらしい、ということである。

 毎日だけではない。
 NHKも今年4月18日、「韓国併合への道」という1時間番組を放送したが、そこで中心的コメンテーターとして画面に登場していたのが、この伊藤之雄氏だった。NHKも、この新説を採用したわけである。

 NHKはまた、昨年暮れ、スペシャルドラマ「坂の上の雲」の第1部を放送したが、その中では伊藤博文を「臆病なほどの平和主義者」として描いていた。
 そしてこのドラマの中、伊藤は、戦争が終わった後、憂い顔で「わしらは何のために清国と戦(いくさ)をしたんじゃ」と自問するのである。
 冗談じゃない。伊藤はこの日清戦争時の首相であり、戦争に勝った後は下関で大日本帝国の全権として日清講和条約に調印するが、その第一条には、これまで宗主国であった清国の朝鮮に対する影響力を完全に排除するということが宣言されていた。
 つまり日清戦争は、初めから、朝鮮の支配権をめぐる戦いだった。そして日本が勝利をおさめ、清国と朝鮮の何百年にもわたる宗属関係を断ち切り、清国を朝鮮から駆逐したのである。
 さらにその10年後、先に述べたように日露講和条約でロシアを駆逐して、日本は韓国の独占的支配権を確保、統監となった伊藤が実質的植民地化を実現したのである。
 このように、韓国・朝鮮の支配権の確保については、終始、大日本帝国の先頭に立った伊藤が、NHKスペシャルドラマの中では、「わしらは何のために清国と戦をしたんじゃ」とまぬけなことを述懐したのである。

 学界では、歴的事実から見て明らかに問題があると思われる新説が優勢を占めつつあり、何もわからないマスコミはその新説に面白そうだと飛びつき、歴史事実を無視したとんでもない人物描写に何の疑問も抱かない。
 ウソと事実の見分けがつかなくなってしまったのである。
 この国はどうなるのだろうか。
(関連)  http://kakaue.web.fc2.com/ 『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク

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