NHK出版「坂の上の雲 (NHKスペシャルドラマ歴史ハンドブック)」での閔妃暗殺事件について
NHKスペシャルドラマ歴史ハンドブック「坂の上の雲」の
(17ページ ひとくちmemo)には閔妃暗殺事件についてhttp://kakaue.web.fc2.com/syo2.html#binpiより転載
『閔妃とは李氏朝鮮の第26代皇帝高宗の后であり、明成皇后と呼ばれる。大院君の追放後、近代化に眼を向けたのだが、旧式軍隊と大院君とのクーデターにより清国に助力を頼み、日清戦争後は、ロシアに接近していく。閔妃に不満を持つ大院君や開化勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年、大院君を中心とした開化派武装組織によって景福宮にて暗殺され、その遺体は武装組織により焼却された。悲しい運命に翻弄された一人でもある。』
・・・・と記述されている。
一方 09/12/20 放映のNHKドラマ「坂の上の雲」第4回「日清開戦」の中では
「王妃閔妃が三浦梧楼公使率いる日本人たちによって暗殺されたのである。」という一言のナレーションが挿入されている。
全く正反対の内容である。NHKは何を考えているのか?
このナレーションには「原作には書いてない」等のクレームがNHKによせられていて、これに対する「NHKの公式見解」は
「閔妃暗殺事件についてですが、ご指摘のとおり、この事件について、さまざまな議論があることも承知しています。当時の状況を視聴者のみなさまにわかりやすく説明するため、多くの歴史資料にあたったり、専門家の意見を伺ったりして、描きました。」(NHK視聴者コールセンター)ということのようだ。
NHK出版(日本放送出版協会)はNHKの子会社であるがこの本の責任はどこにあるかといえば極めて”あいまい”である。
奥付には /(取材、編集、文) 三猿舎 /(編集人) 河野逸人 /(発行所) 日本放送出版協会/となっている。
三猿舎 とは検索すると
(有限会社)三猿舎 東京都 千代田区 猿楽町2-8-5 電話 03-5282-7061
(ウェブサイト 未登録 Eメール 未登録)であるが
この会社の本は三猿舎(編), ××社(発行)とされているものが多く、「取材、編集、文」に力をいれているようだ。(出版関係者によるとNHK出版のこの手の本は”まる投げ”らしい)
それにしても「NHK出版」の本にこんな記述があれば「NHKの見解」と思う人が多くても不思議ではない。
NHK視聴者コールセンターの回答「閔妃暗殺事件に.....、この事件について、さまざまな議論があることも承知しています。........、多くの歴史資料にあたったり、専門家の意見を伺ったりして、描きました。」はいったい何を意味しているのか?
「さまざまな議論がある」とは何のことか?
そこで 中塚明氏(奈良女子大学名誉教授、朝鮮史研究会幹事 )に次の2点を質問してみました。
① 閔妃暗殺については現在でも「さまざまな議論がある」段階なのでしょうか。
②(根拠を提示して)[首謀者は、朝鮮人の大院君で、実行犯が禹範善]と言っている人などいるのか?
中塚明教授からの回答(概要)は次のとおりでした。
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「閔妃暗殺について....「さまざまな議論がある」段階なのか。」とのご質問にお答えします。
日本の内外を問わず、真面目な研究者の間では、犯人が日本人であることは共通理解になっています。直接、王妃を斬ったのは「宮本竹太郎陸軍少尉」と見られますが、ほかの日本人かも? という「議論はある」かも知れません。
しかし、日本や韓国、その他外国でも、真面目に歴史を研究している人の間で、「犯人が日本人か、朝鮮人か、さまざまな議論がある」ということは決してありません。「犯人を日本人か、朝鮮人か、特定できないようにグチャグチャにしてしまう」というのは、事件直後、三浦梧楼公使が意図的にそうしようとしたことから始まっています。
資料①は、事前には事件計画のカヤの外におかれていた京城領事の内田定槌の原敬外務次官あて私信の事件直後の第一報です。この内田も日本の外交官として、あとでは三浦などと口裏あわせをすることになますが、この資料①はまだ口裏合わせをする前のもので信憑性が高いものです。
資料②は、在日韓国人の研究者である金文子さんの『朝鮮王妃殺害と日本人』(高文研、2009年2月刊行)
資料③は、東京大学名誉教授の和田春樹さんの『日露戦争』(上)(岩波書店、2009年12月刊行) 両者とも、現在、日本内外できわめて評価の高い第一級の最新の研究です。
また、資料④として、外務省外交史料館日本外交史辞典編集委員会編の『新版 日本外交史辞典』の「閔妃事件」をコピーしておきます。
以上のような理由から、私は④参考としたNHK出版(日本放送出版協会)の「歴史ハンドブック」の17ページの「ひとくちmemo」は「NHKによる歴史の偽造」だと思っています。
「多くの歴史資料にあたったり、専門家の意見を伺ったりして、描きました」ということですが、どんな「専門家の意見を伺った」のか、聞きたいですね。
以上のようにお返事いたします。 忽々不一 中塚明
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資料①
「原敬関係文書」第一巻書翰篇一 原敬文書研究会編 日本放送出版協会 1984年刊
(なんと同じ「日本放送出版協会」!)
内田定槌(さだづち)京城日本領事→原敬外務次官あて私信(内田→原あて事件第一報)
このなかで内田定槌京城日本領事は事件当日(明治28/10/8)原敬外務次官に公文には書けない「小生が実地見聞したる事を」知らせ指示を仰いでいるのである。
曰く「新納少佐の宅には・・・・・・少佐の外に柴四朗と姓不詳壮士體の日本人1名来合せ居り、其壮士體の男は昨夜来・・・・大院君を擁して入城したる1人にて、正に其始末を物語り中なるより、小生も之を傍聴致し候に、岡本柳之助氏総指揮役となり、数多の本邦人を引連れ・・・・
右殺害せられくる婦女の1名は王妃なりとの事に有之、之を殺害したるものは我守備隊の或陸軍少尉にして、その死骸は萩原が韓人に命じ之を他に持運ばしめ直ちに焼き棄てたり・・・・
本件関係人は此後当館に於て如何取扱(うべきでしょうか)内々御高見(を賜りたい)、右は公文を以て伺出づるも甚だ妥当ならず候に付、極内々に申し上げ候。
御一覧後は御火中に下され度く候。」
<以下全文>(242-243ページ)
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5 明治28年10月8日 〔封筒なし〕
拝啓 久く御無音に打過候處益す御壮栄奉賀候。
扨て今朝王宮内の事変に関しては已に我公使館より公報有之候事と存候得共、茲に小生が實地見聞したる事を爲御参考内々御通報申上候間、極内々にて御聞取被下度候。
扨て如此事変の起るべき噂は数日前より薄々聞込居候處、今朝五時半比砲聲に驚き起き出て戸外を眺むるに、王城の方角に當り頻りに小銃の音連発致居候に付、偵察人を派出致さんと思ひ、堀口領事館補並に萩原警部の宅に至り之を呼起さんと致候得共、両名とも不在に付、萩原と仝宿の大木書記生に両名の所在を聞糾し候處、両人とも昨夜来三浦公使の内命により大院君の邸に至り、之を擁して今朝王宮に押入りたりとの趣に付、小生も大に驚き公使館に至り、三浦公使を訪はんとしたれとも、公使は已に杉村書記官と共に参内したる後にて面會を得す、日置書記官と相携へ新納少佐の宅に至りたるに、仝所には少佐の外に柴四朗及姓不詳壮士體の日本人壱名来合せ居り、其壮士體の男は昨夜来太陰(ママ)君の宅に至り、仝君を擁して入闕したる壱人にて、正に其始末を物語り中なるより、小生も之を傍聴致候に、岡本柳之助氏惣指揮役と爲り、数多の本邦人を引連れ、孔徳里の別荘より太陰君を擁し、西大門外に於て訓練隊兵卒並に日本兵の一隊と合し、王宮正門の開くるを待て入闕したりとの事に有之候。
然るに其後萩原警部は午前十時比に帰舘し、当舘巡査中にも亦衣服に血痕を付けて帰舘する者有之、堀口も亦午後四時比に至り帰館致侯に付、昨夜来の顛末を相尋侯處、右両人共昨日夕刻より公使の内命を承け、萩原は部下の巡査数名を引ひ平服にて龍山に出張し、仝所にて仁川より来る岡本柳之助と俟合せ、数多の壮士體のものと共に麻浦なる大院君別荘に至り、夜十に時比巡査をして壁を越へ仝邸に忍び入らしめ、先つ其護衛巡検を一室に閉込め外より錠を下し其外出を差止め、夫より門を開き仝行者を誘人れたる後、本日午前四時比出発、大院君を護じ大闕に向ひ、途中にて前記の通り韓兵及日本兵と勢を合せ進行したりとの事にて、之より先き我公使館の方にては梯及斧等を當舘巡査の内両三名に渡し、大院君の一行宮門に達する前大闕の高壁を乗越へ、内より正門を開かしめたりしが、之を開くや否や其表面に俟ち合せ居りし一群の韓兵及日本兵及壮士等は時の聲を挙け門内に進入し、或は発砲し或は刀を振り廻はし、国王王妃等の寝室に向つて押寄せ、婦女両三名及男に三名を殺害したる後にて、大院君は国王の居間に入り之に面會したりしか、幸にして国王及世子宮夫婦は無事なりしも、右殺害せられくる婦女の壹名は王妃なりとの事に有之、之を殺害したるものは我守備隊の或陸軍少尉にして、其死骸は萩原が韓人に命し之を他に持運ばしめ直ちに焼き棄てたりとの趣にて、随分手荒き所業を相働き候。
其他に殺害せられたるものの内、男子は洪啓薫、宮内大臣、玄興渾なりとの事なれとも、玄は逃れたりとの説も有之候。
我兵及他の日本人等が王宮内にて行ひたる乱暴の顛末は、四五名の西洋人が終始現場にて目撃敷居、且は最早夜の引明て後に付、悉く我國人の所業を彼等に知られ居候事と存候。
右の始末に付本件の善後策は随分御困難に可有之、且つ當舘員を如此事に使用するに付ては豫て(まえもって)公使より小生へは一言の相談も無之、且つ堀口、萩原等へは決して之を小生へ口外すべからざる旨を申含め置きたる由に付、小生に於ては今朝に至る迄少しも本件に當館員の関係ある事は承知不致打過候。
付ては本件関係人は此後當館に於て如何取扱可然哉、内々御高見御漏し彼下度、右は公文を以て伺出つるも甚だ妥當ならす候に付、極内々に申上候。
御一覧後は御火中被下度候。早々
十月八日 京城 内田定槌
原老臺 玉案下
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資料② 朝鮮王妃殺害と日本人(高文研、2009年2月刊行)(金 文子=著)より
朝鮮王妃殺害と日本人(金 文子著) 立ち読み
(249-259p)
1 内田領事と王妃事件
※「歴史上古今未曾有の凶悪」事件と称した外交官
今回は計らずも意外の辺に意外の事を企つる者、之れ有り。独り壮士輩のみならず、数多の良民、及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候 (『日本外交文書』第二八巻第一冊四二四番)
右は、一八九五(明治ニハ)年一〇月八日、明成皇后殺害事件が起こったとき、朝鮮国京城領事館一等領事の地位にあった内田定槌(さだづち)が、一一月五日付で西園寺公望外務大臣臨時代理(以下臨時代理は略す)あてに送った機密書簡の結びの文言である。
(略)
さて、京城領事内田定槌は、こともあろうに全権公使三浦梧楼が、「壮士輩」のみならず多数の「良民」(一般居留民を指すか)、内田の部下である「領事館員」、ソウルに駐屯する日本の軍隊である「守備隊」までも動員して、朝鮮の王宮景福宮に侵入して王后閔氏を殺害するという「歴史上古今未曾有ノ凶悪」事件に遭遇し、満腔の遺憾の念を持って孤軍奮闘した稀有な外交官であった。
事件直後から書き送り続けられた外務次官原敬あての私信、外務省あて公信電報と機密書簡、広島地方裁判所草野検事正あての報告書、事件から四〇年後に外務省の調査に応じて語った回顧談等、内田定槌が残してくれた諸記録がなければ、本事件はさらに深い闇の中に取り残されていたことであろう。 以下、内田定槌が残した諸記録を読み解きながら、未曾有の凶悪事件に心を痛め、苦渋に満ちた報告書を書きつづけた、ひとりの日本人外交官がいたことを紹介しよう。
(略)
* 王妃を殺害したのは「陸軍少尉」
内田は八日付けの原あて第一報(資料①)で、王妃を殺害したのは守備隊の或る陸軍少尉である、と明確に書いている。これは、萩原、巡査たち、堀口らが王宮から戻って来た直後に、内田が直接聞き質したことに違いない。後に関係者が三浦梧楼のもとに集まり、日本の官吏と軍人の関与を隠蔽するため、「壮士」の中から下手人の名前を次々に挙げて、ことさらにうやむやに持ち込むための口裏合わせをする前の記録として信憑性が高い。
その後、事件に関係した軍人として、公使館付武官の楠瀬中佐、京城守備隊長の馬屋原少佐と石森、高松、村井、馬来、藤戸、鯉登の六人の大尉たちが帰国を命じられ、広島憲兵隊本部に収監されて取り調べを受けるが、その取り調べ過程で上がってきた名前が宮本竹太郎少尉であった。防衛研究所に所蔵されている陸軍省の文書ファイル「明治二十八年十月起仝二十九年一月結了 朝鮮内乱事件」(以下「朝鮮内乱事件」と略記)には、次のような電信記録が残されている。
宮本少尉、牧特務曹長は壮士の王妃を殺害したるとき、其場に居りたることを本人より聞知せし由、馬来大尉陳述す (広島憲兵隊本部林中佐から陸軍省児玉次官へ、一一月一二日午後一時五分発)
予審庭にて壮士平山の自白に、宮内大臣を最初射撃したるは少尉にて後ちに切りたるは自分なりと……宮本は最も疑あり (春田憲兵司令官から児玉次官へ、一一月二二日一時三五分発)
(略)
その後、朝鮮軍において教導中隊を母体に訓錬隊が編成されるが、宮本少尉は引き続き訓練隊教官として京城守備隊から派遣されていたことが、内田の一一月五日付け外務大臣あて報告書に書かれている。
王妃事件における宮本少尉の行動については、憲兵司令官春田景義の児玉陸軍次官あて報告書にいくつか出てくる(「朝鮮内乱事件」No.198,No.191)。
先ず、第十八入隊長馬屋原少佐は王妃事件前日の一〇月七日朝八時から大隊本部に各中隊長を集めて臨時秘密会議を開くが、この会議に宮本少尉が第二訓錬隊大隊長・萬範善を連れて来る。
此時第三中隊付の宮本少尉が第二訓練隊大隊長「ウハンセン」を誘ひ来りたれば大隊長は之と密談あるとて各中隊長を他に避けしめたり、暫時にして大隊長は右の「ウハンセン」と同行して我公使館ニ至り午后三時頃に皈(かえ)りたり、夫より再び各中隊長を集め、今朝命令したることは弥(いよいよ)明日実行することになりとて夫々任務に当る時間等を示したり(一一月三日付第九回報告)
また、第三中隊長馬来大尉は、春田の取調べに対し、「策三中隊付宮本少尉は馬屋原少佐の許に付属し居りしが、同官の命に依り入城したり」と陳述している(一一月一日付第七回報告)。
宮内大臣李耕稙を狙撃し、王妃に最初の一刀を振るって致命傷を与えたのは、京城守備隊長馬屋原少佐に付き添って、直接命令を受けて行動していた宮本竹太郎少尉であったことは、関係者の間では周知の事実であったのではなかろうか。
* 内田領事の隠蔽工作
内田が何故私信という形で原敬に報告したかについては、八日付け書簡末尾に「右は公文を以て伺出づるも甚だ妥当ならず候に付、極内々に申し上げ候。御一覧後は御火中に下され度く候。」と書いている。幸いなことに、原は火中に投じることなく、厳重に保管して後世に残してくれた。
内田の三通目に当たる一〇月一一日付け原あて書簡では、内田自身が事件への日本人関与を隠薮する工作に積極的にかかわっていることを述べている。内田は事件直後から、三浦公使の命により、ソウル居住の外国人に対して、日本人は本事件に決して関係していないという嘘の弁明に奔走させられているが、日本人が関与していることは、多数の西洋人が目撃しており、また、王宮に侵入した日本人の中には、得意気に手柄話を吹聴するものがいたので、日本人の関与は隠しようがなかった。
ただ幸いなことに、公使館員、領事館員、守備隊の関与については、外国人の間にもまだ判然としていないので、今なら隠蔽方法はいろいろある。三浦公使とも相談の上、公使館員、領事館員、守備隊以外で、二、三〇名程度関係者を処罰して済ませるという方向で、本日より審問に着手するので、そのようにご承知置きくださいと、内田は原に伝えている。こういう文言は、とうてい公信に残すわけにはいかなかったであろう。
さて、内田領事が一〇月一一日より着手した審問というのは、その実、関係者の口裏あわせであった。目的は公使館員、領事館員、守備隊の関与を隠蔽することにあった。内田がこのように積極的に隠蔽工作に加担していった理由は、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」と考えたからである。
さらにその後の一〇月一九日付け書簡では、はじめはこの事件が日本政府の意思に出たものかどうか、そうではないとしても、昨年(一八九四年)七月二三日の王城事変(日本軍による朝鮮王宮占領事件)のように、これを追認するのかどうか、まさか政府の内意に出たものではあるまいが、政府が本件の始末をどのように付けるのか見当がつかず、関係者をどのように処分してよいのか当惑した、と正直に告白している。
「最初は此れ果して我帝国政府の意志に出でたるものなる哉否や、若し帝国政府の意志にあらずとするも、昨年七月二十三日の王城事変に於ける如く、我政府に於て之を追認するや否や判然不致、まさか我政府の内意に出でたるものにあらざるべしと想像は致し候得共、我政府に於て本件の始末を如何に付けらるゝ杯(など)の見当が相付き不中候に付、小生に於ても関係人の処分方に当惑致居候」
王宮占領事件を実見している内田領事には、三浦公使が起こした王妃殺害事件を日本政府が追認することは、大いに有り得ることと思われたのである。
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資料③
和田春樹『日露戦争』(上)(岩波書店、2009年12月刊行)より
(186-187頁)
殺害の目撃者たち
惨劇をその渦中で目撃して、証言をのこしたロシア人がいる。セレジーン=サバーチンである。彼は一八八三年に上海から朝鮮に来たお雇い外国人で、最後は建築家として高宗のために働いた。王と王妃が居住する乾清宮の奥に二階建ての洋館、観文閣を一八八八年につくった。仁川の万国公園の中にある済物浦クラブの建築に関わったことも知られている。後はヴラジヴォストークの新聞『ダリョーキー・クライ』に匿名で朝鮮からの通信を送っていた。
*(280)
彼は前日王宮内を見回ったさい、衛門のあたりで朝鮮の新車兵士と日本車兵士とがにらみあい、朝鮮人兵士が何事かを叫んでいるのを聞いている。宿舎にもどると、知り合いの朝鮮人が訪ねてきて、明日の晩何事かがおこると警告したが、内容は知らされなかった。当日は、午後七時に王宮内を見回ったが、何事もなかった。一〇月八日、明け方前の午前四時、宮廷警備隊、侍衛隊の将校李ナギュンが来て、王宮は反乱した兵士に取り囲まれていると言った。しばらくして、アメリカ人の軍人ダイが出てきて、一緒に門まで行ってみようと提案した。
彼らはまず西の迎秋門へ行った。門前には日本車の兵士が整列していた。そこから東の建春門へ行くと、そこには三〇〇人ほどの訓練隊の兵士がいた。重大な事態だと悟った彼らは宮殿(乾清宮)にとってかえし、警戒措置をとったしかし、将校たちは留守で、兵士を動かすことができなかった。明け方五時に西側で銃声がおこり、塀にはしごをかけて訓練隊の兵士が侵入してきた。歩哨は最初の銃声でみな逃げだし、のこる侍衛隊も逃げてしまった。ダイは彼らをとめようとしたが、ムダだった。セレジーン=サバーチンはこのとき、乾清宮内の国王と王妃の居室に通じる扉に群がる人々の中に、平服の日本人数人を見た。彼らは行ったり来たりして、誰かを探している風であった。
「王妃の居室がある構内は日本人で一杯だった。二〇人から二五人ほどである。彼らは平服で、刀をもっていた。
一部の者は抜刀していた。彼らを指揮していたのは、長い刀をもった日本人だった。多分彼らの隊長であろう。一部の日本人は宮殿の隅々まで、さらには別の建物の中も大わらわで探していた。別の者は王妃の部屋に乱入し、そこにいた女官に襲いかかり、髪の毛をつかんで窓から引き落とし、地面を引きずり、何か問いただしていた。」 「私はもとの場所にとどまり、日本人が王妃の御殿の中のものすべてをひっくり返すのを見守りつづけた。二人の日本人が一人の女官をつかんで、家の中から引きずり出し、階段の下に引きずりおろした。」*(281)
セレジーン=サバーチンはまさに王妃襲撃のまっただ中に立っていたのである。やがて日本人の行動隊員は彼をつかまえて、王妃の建物の前に連れていき、王妃がどこにいるのか教えろと迫った。英語で、「王妃はどこにいる。われわれに王妃を教えろ」と言った。それから指揮官もやってきて、「われわれは王妃を発見できていない。あんたは彼女がどこにいるか知らないか。彼女がどこにかくれているか教えてくれ」と迫った。*(282)
自分は王妃に会ったこともない、知らないと言い張って、放免されたのである。
二人のことは内田報告にも出てくる。
注:
(280) Bella Pak, op.cit.,vol.II,p.245.李泰鎮(鳥海豊訳)「東大生に語った韓国史」明石書店,2006年,96-98頁.ゲ・デ・チャガイ編『朝鮮旅行記」平凡社,1992年,340頁
(281) この証言は,Rossiia i Koreia,pp.284-289にある.オリジナルは,AVPRI,Fond Iaponskii stol, Op.493,God 1895-1896,D.6,L.73-75.引用箇所はpp.287-288.またサレージン=サバーチンがSankt-Peterburgskie vedomosti,4/16 May 1896 に載せた通信も参考にした.これはKoreia glazami rossiian,Moscow,2008,pp.14-22に収録されている.
(282) Rossiia i Koreia,p.288.
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資料④
編者 外務省外交史資料館日本外交史編纂委員会 「新版 日本外交史辞典」1992/5/20発行 山川出版
閔妃事件(びんひじけん) より
1895年(明治28)10月8日,朝鮮高宗皇后閔妃(1851~95年)が殺害された事件。「乙未の変」とも呼ばれる。 95年9月1日、三浦梧楼中将(予備役)が井上馨公使に代って駐朝鮮公使として赴任した。当時朝鮮国においてロシアと結ぶ閔妃一族の勢力が強くなり,日本軍将校の指導した訓練隊(政府直属の軍隊)を解散してアメリカ人教官指導の侍衛隊(王室直属)をこれに代えて親日勢力を一掃しようとする動きがみられた。10月3日,三浦公使は杉村濬書記官、楠瀬幸彦公使館付武官、岡本柳之助朝鮮国軍部兼営内府願問官らと協議して、閔妃の政敵で京城郊外孔徳里に蟄居する大院君を擁して閔妃を倒し親日政権樹立を計画した。10月7日、朝鮮国政府から「訓練隊解散決定と8日武装解除」の通告を受けるや、8日早朝,上記計画を決行した。訓練隊,日本軍守守備隊、日本警察官,日本人新聞記者・壮士らを動員,大院君を擁して景福官に入り,王宮護衛の侍衛隊を撃破し、閔妃を殺害、その死体を火葬した。・・・・・・・・・
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資料②「朝鮮王妃殺害と日本人」からさらに引用する。
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3 内田領事の公信報告書 (259p)
* 外務大臣・西園寺公望あて報告
内田領事は、小村寿太郎政務局長のソウル到着(一〇月一五日)により、日本政府が「公明正大」に対処すると素朴に理解した。そして小村と打ち合わせの上、事件関係者に退韓命令を発令し、外務省あてに正式な報告書を提出した。一一月五日付、西園寺外務大臣あて機密第三六号「明治二十八年十月ハ日王城事変ノ顛末ニ付具報」は、『日本外交文書』にも収録されており、本事件を理解する上での基本史料として、たびたび引用されてきた。
この報告書は、「小官の実地見聞したること及び職務上取り計らいたること」を開陳具報するとして、「在朝鮮国京城日本領事館」の罫紙二〇枚に毛筆細字でびっしり書かれたものである。そして、末尾は本章の冒頭で紹介したとおり、「歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為め実に残念至極なる次第に御座候」という言葉で結ばれている。
先に紹介した、王妃事件前夜から当日にかけての内田自身の体験談は、一〇月ハ日付け原あて私信によったが、この報告書にもほぼ同じ内容が書かれている。本国政府が本事件に対する対応を誤らないように、できるだけ正確な情報を伝えなければならないという、内田の使命感がよく伝わってくる。
但し、内田が何もかも正直に書いたと考えるのは、単純に過ぎよう。この報告書には、事件直後に書かれた原あて私信と比べると、あえて曖昧に記述した部分があること、また私信にはなかった三浦公使と大院君の共謀説が説かれていることが注目される。
前者の例を挙げれば、八日朝、内田が砲声で飛び起きた時刻を、私信では「五時半比[頃]」と具体的に時刻を書いているにもかかわらず、報告書では、たんに「払暁」としている。事件の勃発した時刻は重要である。とくにこの事件は、多くの外国人に日本人の関与を目撃されたために国際問題化して日本政府を慌てさせたのであるから、より正確さが求められる。それゆえに、逆にあえて曖昧に報告している、と見なければならない。
また、王妃を殺害したものについて、前者では「我守備隊ノ或陸軍少尉」と明言しているにもかかわらず、後者では、「王妃は我陸軍士官の手にて斬り殺されたりと云う者あり。又夕田中賢道こそ其の下手人なりと云う者あり。横尾、境両巡査も何人かを殺傷せしやの疑あり。高橋源次[寺崎泰吉」も亦慥かに或る婦人を殺害せり」とぼかした表現になっている。
これらは、内田がこの「公文」報告書を書くにあたって、微妙な配慮を加えていることを推測させる。微妙な配慮とは、原あて私信で明言しているように、出来る限り日本の官吏と軍人の関与を隠蔽するために、三浦公使とも相談して一〇月一一日より着手した関係者間の口裏合わせとの矛盾を避けることであろう。
三浦公使と大院君の共謀説も、同様の配慮のもとに創作されたと見るべきではなかろうか。
内田は「三浦公使の直話、堀口領事館補、萩原警部並に今回の事件に間係せる当館巡査及其他確かなる筋より探聞したる所によれば、抑も今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」であると言い切り、三浦公使が岡本柳之助を通じて予め大院君の内意を確認し、「大院君は人闕の後決して政治に容喙せざること、李埈鎔は直ちに日本へ留学せしむること、及其他重要なる条件をば認めたる誓書を大院君より受取らしめ置きたり」と書いている。
しかしながら、事件当夜、岡本柳之助か通訳の鈴本順見をともなって大院君の居室へ入ってから「凡そ二、三時間も評議の末、弥弥出発することに決し」たとも書いている。また四〇年後に外務省の調査に応じて語った時には、「愈々今夜決行すると云う時になって大院君が躊躇し出した。京城郊外の大院君の邸へ岡本や堀ロ君が夜中に行って促そうとしたが、大院君は仲々出て来ない。愚図々々して居ると夜が明け始めたので、多勢の日本人の壮士等も一緒になって無理矢理に大院君を引っ張り出し、真っ先きに守り立てゝ王城に向った」と言っている。
内田が本当に三浦公使と大院君の共謀説を信じていたとは思えない。
一年ニケ月前の王宮占領作戦時に大鳥公使に呼ばれて大院君引き出しにかかわり、今回と同様に通訳鈴本順見を介しての岡本柳之助と大院君のやりとりを見ていた北川吉三郎が、大院君が岡木柳之助らに言った言葉を伝えている。
元来君等は外国人なり、我朝鮮の王室に関して彼是容喙すべきものに非ず、また仮令い相談を受けたればとて、夫れに答ふべき筋合のものにあらず (*3)
今回もきっと大院君は「元来君等は外国人なり、我朝鮮の王室に関して彼是容喙すべきものに非ず」と一喝したのではないだろうか。岡本柳之助は抜刀した日本人たちが大院君の出邸を何度も督促してくるのを一方では叱り付けながら、このままでは命が危いことを大院君に繰り返し説かなかったか。 大院君は止むを得ず引っ張り出されるまでに、のらりくらりとずいぶん時間稼ぎをし、本事件を太陽の光のもとにさらけ出し、多くの目撃者をつくり出した。
三浦公使と大院君の共謀説は、成り立つはずもないことであるが、この『日本外交文書』に収録された明治ニ八年一一月五日付け内田報告を有力な根拠として、日本の研究者の多くがいまだに共謀説に囚われているのが現状である。
* 西国寺の叱責と内田の反論
内田領事の報告書はこれだけではない。広島地方裁判所の嘱託を受けソウルにおける関係者の取り調べにあたっていた内田は、一一月一二日付けで広島地方裁判所草野検事正あてに、一一月五日付け西園寺あてとほぼ同様の内容の報告書を提出した。
これに対し、西園寺は一一月二二日に次のように電訓して内田を叱責した。
広島地方裁判所に差出したる書類の写閲覧せり、本件に関し貴官は左の事に注意すべし、貴官今回の事件に付裁判所の嘱託を受け取消を為すは、領事の職務に属するものにして司法所属の官吏と自ら区別あり、就ひては去十三日電訓の主旨を篤と翫味し、領事は其所属長官たる外務人臣に向って報告する総ての秘密事件を他に対し云ふを為ざるものと了解ありたし (外務省外交史料館蔵「韓国王妃殺害一件」第三巻所収、外務省電送第八七四号)
今回の事件について、貴官(内田)が裁判所の嘱託を受けて関係者を取り調べるのは、領事としての職務であり、司法官吏とは自ずから区別がある。領事はその所属長官である外務大臣に報告するすべての秘密事件を他に対して言ってはならないものと了解されたい、と西国寺は内田に言ったのだ。 しかし、内田はすぐさまこう打ち返した。
本日御電訓の趣委細敬承せり、然るに本月十二日附を以て草野検事正へ通報したることは、皆同検事正よりの間合に応じて返答したるものにして、苟くも我政府に於て本件を公明正大に処分せらるゝ御趣意なる以上は、之を通報する方が御主意に協ふことと信じたり、去れども若し右通報の中裁判所に知らしめて不都合なる点あらは、如何様にも修正すべきにより、至急其廉々を明細に訓示せられたし (同右、外務省電受第一二七六号)
草野検事正へ通報したことは、我が政府において本件を公明正大に処分する趣意である以上、これを通報することがその趣意にかなうと信じたからである。もし、通報中に裁判所に知らせて不都合な点があるならば、いかようにも修正するので、至急明細に訓示されたい、と内田は西園寺に反論したのである。
三〇歳の駆け出し外交官が、外務大臣代理であるばかりでなく、天皇の近親である西園寺公望に向かつて、臆することなく自己の所信を表明したのは立派と言わねばならない。
内田はこれ以前に、三浦梧楼ともやりあっている。三浦は小村寿太郎政務局長の到着前に関係者の一部をソウルから退去させたかったので、責任はすべて自分が取るから即刻退韓命令を出せと内田に迫ったことがあった。これに対し内田は、次のように述べて拒絶した。
小官が職務上行いたることに関しては、小官自ら甘んじて其責任を負うべきに付き、必ずしも閣下を煩わすに及ばず。唯本国政府の訓令を待たず、かくの如き処分を決行致し候ては、責任の何人に帰するを問わず、我が国の外交上快復すべからざる不都合を来すやの懸念なきにあらず。依って小官は兎に角其筋の訓令を俟つの外なし。而して若し此れが為め何等の不都合を来したらば、その責任は小官自ら負担すべし (前掲「明治二十八年十月八日王城事変ノ顛末ニ付具報」)
維新の功臣、陸軍中将の三浦梧楼も、内田の正論の前に引き下がるほかなかったであろう。
しかしながら、今回の西園寺の叱責に関しては、本国の「公明正大」という建前をまともに受け止めていた内田は、内心愕然としたことであろう。内田は、翌年三月一四日付け原あて私信で、事件落着次第転任したいという希望を書いた。これは後に、面倒見のいい原によってかなえられるが、もうしばらく、内田領事の頑張りは続けられねばならなかった。
* 王妃殺害現場の図と天皇への報告 外務省外交史料館に、王妃の殺害された場所を詳細に記した「景福宮之図(現王城)」がある(「韓国王妃殺害事件一件」第二巻所収、本書巻頭のカラー図版参照)。
これは内田領事が、事件後現場を実際に確認した上で作成したものである。
内田はこの地図を「機密第五十一号」公信書簡に添付して外務省の原あてに送った。いわゆる漢字カタカナ交じりの「候文」で書かれたものであるが、分かりやすく漢字ひらがなの読み下し文に直し、全文を掲げよう。
機密五十一号
御参考の為、別紙景福官即ち現王居の見取図一葉、進達に及び候間、御査収相成り度し。右は或る本邦人の作りたる見取図に基づき、尚、小官が実地の見聞により修正を加え調整したるものにして、固より精確を保し難く候へども、概略に於いては、格別の誤謬これ無きものと相信じ候。図中に示せる乾清宮は、十月八日前後に於ける国王陛下初め王族方の御居殿にして、長安堂は陛下、坤寧閤は王妃陛下の御居間なり。また坤寧閤の裏手に当り東西に横たわれる一棟は、王太子及び王太子妃の御居間なり。而して該事変の時、王后陛下は図中に示せる(1)の所より(2)の所に引き出され、此処にて殺害に遭われたる後、屍骸は一旦(3)の室に持込み、その後夾門より持出し、(4)点に於いて焼き棄てられたる由にて、十一月二十二日小官が王城に入りたるとき、燃残りたる薪類、尚(4)点に散在し、その傍らには何者をか埋めたる如き形跡歴然たるを認め候。右具報に及び候。 敬具
明治廿八年十二月二十一日 在京城 一等領事内田定槌 印
外務次官 原敬殿 この書簡欄外には、これが翌年一月四日に外務省に届き、政務局が主管して外務次宮原敬、外務大臣西園寺公望の閲覧を経て、一月一一日に侍従長を経て天皇に上奏されたことを示す書き込み及び押印がある。
さて、この内田報告によると、王妃は王宮見取図上の(1)の地点で襲われ、(2)の地点に引き出されて殺害され、屍骸はいったん(3)玉壷楼に持ち込まれた後、夾門から持ち出されて(4)鹿山で焼かれ、その付近に埋められたことになる。
見取図にはその地点が明示されているだけでなく、暗殺団の光化門よりの進入路、王妃の亡骸の運ばれた道筋、王宮守備の侍衛隊兵卒の整列していたところ、侍衛隊指揮官アメリカ人ダイが立っていたところ等が記されている(全体見取り図右端の注記)。他に見られない記録と言わねばならない。
しかも、内田は、一一月二二日に王宮に入り、現地を確認して書いたと言っている。内田は、領事裁判所判事として関係者を取り調べ、退韓命令を発令する立場にあった。取調べの過程で得た情報を現地で確認して本国に報告したものであるから、信憑性は極めて高い。
当然「誰が」ということも分かっていたはずである。しかし、この報告には「誰が」という部分が完全に省かれている。あるいは、「誰が」という部分は、別に報告されたのかもしれない。
なお、王妃の亡骸の始末について、内田はその後さらに詳しい情報を得たようだ。後年(一九三八年)外務省の調査に応じて、次のように語っている。
其死骸は王城内の井戸へ投じたが、それでは直ぐ罪跡を発見されると気が付いたので、又それを引上げて王城内の松原で石油を掛けて焼いた。それでも未だ気がかりなので今度は池の中へ放り込んだが、仲々沈まないので又其の翌日かに池から取出して松原の中に埋めた。そう云う死骸の始末に付ては関係人から後で聞いたのだが、兎に角私は非常に困った。 (*4)
王妃殺害事件が狂気に満ちた長い惨劇であったことを、内田定槌はこのように克明に記録に留めたのである。
* 機密第五十三号と広島裁判
「王妃殺害現場の図」を送ってからまもなく、内田は、十二月二六日付けで、原敬あてに「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」と題した「機密第五十三号」公信書簡で、次のように書き、朝鮮政府が広島裁判において大院君が首謀者と断定されることを望んでいると伝えた。
現政府当路者中二三の有力者より内々聞込候処によれば、本件に関し三浦子爵岡本柳之助及其他の日本人を首謀者又は下手人として刑罰を受けしむるは、如何にも気の毒なる次第に付、目下取調中なる尹錫萬若くは朴某を以て王妃殺害の下手人と為し、之を死刑に処し、大院君を以て首謀者と為し、其処分方は勅裁に依ることとし、日本人中三浦子爵初め其他関係人は皆な之を従犯とし、可成其処罰方を軽減する様致度ものなりとの意見に御座候、然るに大院君には広島に於ける予審の結果上、或は自分が本件の首謀者なりと決定せらるるに至るべきことを痛く心配し居らるる趣に御座候処、内閣員は全く之と反し前期の通り仝君が首謀者なりと決定せらるるを希望致居候
この書簡は一八九六(明治二九)年一月四日に外務省に届いた。おそらく、日本政府はこの報告を得て、一月一四日の軍法会議において全員無罪につづき、一月二〇日の広島予審全員「免訴」に踏み切ったのであろう。これが内田の本意であったかどうかは不明である。
4 高宗のロシア公使館逃避後の再調査
* 朝鮮政府による調査報告の発表をめぐる攻防
内田はまた、国王高宗がロシア公使館に逃避(二月一一日)の後、国王の意を受けて朝鮮の新政府が行った王妃の死に関する再調査の結果が、ソウルで刊行されていた英文雑誌に掲載されたとき、それを入手して日本語訳をつけ、四月一三日付けで原敬あてに送った。
それは四月二一日に外務省に届き、病気療養から外務大臣に復帰した陸奥宗光の検閲を経て、五月一五日付けで陸奥から内閣総理大臣伊藤博文に報告され、さらに五月一九日付けで伊藤から天皇に報告されている。
内田訳は、領事館の罫紙二四枚に毛筆で細かく書かれたもので、公信第九八号「昨年十月八日事変の公報ト称スル書類進達ノ件」に添付して送られ、外交史料館に所蔵されている。また、これを天皇の「御覧ニ供ス」ために、外務省で美しく毛筆楷書で清書したものが、国立公文書館に所蔵されている(公文雑纂・明治二十九年・第十一巻、アジ歴A04010025000)。
それによると、国王高宗はロシア公使館に避難後、王后閔氏の死に関し「完全にして且つ公平なる調査をなすべし」との命令を下し、この犯罪に関係した朝鮮人を逮捕し審問をおこなわせた。また、この取り調べを監督するために、米国人グレートハウスを法部顧問官として雇用し、証人の取り調べ、公文書の調査の権限をあたえた。
高宗および朝鮮政府はこの調査結果を官報で発表することに決め、原稿を官報局に交付した。
この情報をつかんだ小村寿太郎公使(一八九五年一〇月一七日、三浦梧楼の後任として駐韓弁理公使に就任)は、四月二五日、外部大臣李完用に面会し、「斯る報告を公然官報に掲載するに於ては本官は決して過黙に附せず。断然たる処置を為さざることを得ざる事」と恫喝した。怯んだ李完用は、官報局から原稿を引き上げた。
官報発表をあきらめた朝鮮政府は、独立新聞社主徐載弼に内命して、出阪人と出版所を記載しないで、『開国五百四年八月事変報告書』(八月というのは、朝鮮では旧暦が使用されていたため)という朝鮮語の小冊子三百部を出版させた。また、ソウルで刊行されていた英文雑誌"THE KOREAN REPOSITORY”の一八九六年三月号に'OFFICIAL REPORT CONCERNING THE ATTACK ON THE ROYALPALACE’ (「王宮事変に関する公報」)という記事を掲載させた。
これらは、いずれも小村の五月二二日付け陸奥外務大臣あて報告「十月事変報告書刊行ノ件」とともに「韓国王妃殺害事件一件」巻二に収録されている。
“THE KOREAN REPOSITORY"一八九六年三月号の社説「王妃ノ死ニ関スル再調査」には、本報告書の内容が、同誌一月号に朝鮮の官報より転載した、前内閣のもとでおこなわれた裁判の判決書と異なっているが、本報告書こそ信を置くに足るものであると述べられている。
高宗が、日本の軍事的圧力のもとに作られた前内閣の日本に迎合する調査結果を否定し、日本の蛮行を欧米諸国に訴えようとしたことは明らかであろう。
* 朝鮮政府報告書に描写された惨劇
さて、明治天皇にも報告された、朝鮮新政府の「王宮事変に関する公報」内田訳から、景福宮の奥深く国王一家の寝殿となっていた乾清宮のなかで、どのような惨劇が繰り広げられたか、核心部分を引用してみよう。
日本人は両陛下の御せられたる宮殿に達するや、其内若干は士官の指揮に由り直に之を取囲み、国王陛下の御居間より僅々数歩を離ると処に配置せられ、営庭の諸門を護り、以て王后陛下を捜索して之を弑し奉らんとする兇暴を企て、彼等と共に王城に侵人せる壮士其他の日本人を保護せり。其人数は凡そ三十人許にして、一名の巨魁之を引率し、抜剣の儘国王陛下の御居間に乱入し、後宮を捜索して手当次第に宮女を引っ捕え其頭髪を攫み、或は之を引ずり回し、或は之を打ち擲りながら、王后陛下の御所在を究問せり。右は数多の人々が目撃せし所にして、当時侍衛隊に関係せし「サバチン」氏も亦之を実見せり。同氏は暫時御居殿の庭園にありて、日本士官が同所に於て日本兵を指揮し且つ宮女の虐持せられし事実を傍観し居りしかば、同氏も亦たびたび日本人より王后の所在を尋ねられたるも、同氏は之を告げることが無かったので、これまたその脅迫に遭い生命も危険になった。氏の言うところによれば、日本の士官は現に庭園内に在って、壮士等の暴行は一々之を承知していたのみならず、壮士等が殺戮を行いつつあった間に、その部下の兵が営庭を囲み、その諸門を護衛していたのを承知していたのは明白である。かくて壮士等は一々諸室を捜索したる後、王后陛下が或る一隅の室内に匿れ居り給ひしを発見し、直ちに之を捉え、その携えたる剣を以て之を斬り斃したり。
この時王后陛下には重傷を受け給ひたるも、直ちに崩御せられたるや否や文明ならず。去れども陛下の玉体は、戸板に載せ絹布を以て之を纏ひ庭園に取り出したりしが、間もなく日本壮士の指図により更に付近の小林中に持ち運び、之に薪を積み石油を注ぎ火を放って之を焼き棄てたり。王后陛下の御遺骸は、殆んど全く之を焼失し、その残りたるは僅か数本の骨のみとなり、又だ陛下を殺戮するの畏るべき任務を命ぜられたる壮士輩は、その命ぜられたる任務を全うしたるや否やを慥むる為め、数名の宮女を捉え陛下の御遺骸のもとに連れ行き、其果して陛下なるや否やを訊問し、又だ日本人及び之を補助せし朝鮮人の逆賊等は、陛下を取逃さゞる様十分の注意を施したるの事実は、証憑によって明瞭なり (*5)
一八九六年一月一一日に「王妃殺害現場の図」の報告を受けていた明治天皇が、五月一九日にさらにこのような調査報告書訳文を見て、果たしてどのように思ったか。もしも外国の軍隊が自らの皇居に侵入して皇后を殺害したならば、と想像したであろうか。
5 明治天皇と三浦梧楼
※ 天皇の使い
この問題に関し、三浦梧楼の『観樹将軍回顧録』(政教社、一九二五年、大空社から一九八八年に影印版で復刻)には、興味深い天皇の言葉が記録されている。
予審免訴となり釈放されて東京へ帰還した三浦のもとに、天皇から米田侍従が遣わされた。三浦は次のように語る(『観樹将軍回顧録』三四五~三四七頁)。
東京に着いた其晩、早速米田侍従が訪ねて来た。我輩は先づ、「お上には大変御心配遊ばしたことであろう。誠に相済まぬことであった。」と挨拶すると、
「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった。」と答へ、更に、
「今夜お訪ねしたのは、外でもない。実はアレが煮ても焼いても食へぬ大院君を、ベトベトにして使って行ったが。コレには何か特約でもあったことか、ソレを聞いて来いと申すことで。ソレでお訪ねした。」 とのことである。
米田侍従は「煮ても焼いても食へぬ大院君」を三浦が「ベトベトにして使って」いたが、これには何か特別な約束でもあったのか聞いてこい、という天皇の言葉を三浦梧楼に伝えたのである。
これに対し、三浦は次のように答えたと言っている。
「イヤ大院君とは約束も何もない。最初井上から大院君と王妃とは、決して政治上に喙を容れてはならぬと云ふことにして、書付まで取って居る。然るに王妃は何時の間にか以前に倍して、政治上に関係するに反し、大院君は相変らず押込隠居同然の有様であった。ソレでアノ事件の起った朝、自分は大院君に会って、元々斯う云ふ関係になって居るから、殿下は政治上に容喙することはなりませんぞと戒めた。大院君も李家を救うて呉れると云ふことなら、何よりも有り難い。決して政治上に関係せんから、安心して呉れと云ふことであった。一言半句も理屈はない。唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない。唯井上の折りの書付が反古になったのを、自分か再び活かしたまでの事だ。此辺の事情を能く申上げて呉れ。」
* 三浦が自ら認めた「つくり話」
三浦梧楼は天皇に「大院君とは約束も何もない」と答えた。これは、きっと真実であろう。つまり、広島地方裁判所予審判事に対し、三浦梧楼をはじめ、岡本柳之助、杉村濬らがロを揃えて申し立てた「要項四」問題がつくり話であることを、三浦梧楼みずからが認めているのである。
「要項四」とは、三浦梧楼が大院君の王宮入りを援助するにあたり、大院君からあらかじめとっておいたと称する四ケ条の誓約書(第一、大院君は宮中事務を執り、国政には関与しない。第二、金弘集、魚允中、金允植を要路に立てる。第三、李載冤(大院君の子)を宮内大臣に金宗漢を同協弁にする。第四、李埈鎔(大院君の孫)を日本に留学させる。)のことである。
この「要項四」の写しと称するものが、国会図書館憲政資料室の「三浦梧楼関係文書」(書類の部123)と「星亨関係文書」(書類の部144)に存在する。どちらも「在朝鮮国日本公使館」名入りの罫紙に毛筆で書かれたものであるが、字体は別人のものである。「三浦文書」の方には、別紙(同罫紙)に書かれた大院君の署名らしきものも二種類あるが、もちろん本物ではない。三浦梧楼らがこのような謀議をしていたことの証拠にはなっても、大院君がそれに応じた証拠には全くならない。
「イヤ大院君とは約束も何もない」と三浦梧楼が米田侍従に答えた。しかも、何も約束がないにもかかわらず、大院君が「自分の言ひなり次第になった」と言った。これは、三浦得意の「大言壮語」を越えて、「大法螺」と言わねばならない。
しかし、三浦の回答よりももっと注目すべきことは、天皇が王妃事件を初めて知った時の発言である。米田侍従によると、「遣る時には遣るナ」と言った、という。
ところが不思議なことに、同書が中央公論社から現代仮名遣いに改めて文庫本として出版された時、何故か天皇の言葉を含む二行、「イヤお上は」から「更に、」までが削除されていた。印刷ミスとは考えられず、意図的に天皇の発言「遣る時には遣るナ」が隠されたようだ。(中公文庫『観樹将軍回顧録』二八九頁、一九八八年)
『観樹将軍回顧録』は、同じく三浦梧楼の『観樹将軍縦横談』の一部とともに、一九八一年にも芙蓉書房から『明治反骨中将一代記』という書名で出版されたことがあるが、この時には、このような削除は行われていない。中央公論社による原本の意図的改竄は出版倫理上許されない行為である。
*
明成皇后殺害事件に際し、京城領事内田定槌の書き残した多数の公私信をたどり、内田領事が「歴史上古今未曾有の凶悪」事件に強い遺憾の念を抱きつつも、「日本の名誉」を守るため、官吏と軍隊の関与を隠蔽する工作に積極的に従事していく姿を見てきた。
『日本外交文書』に収録されている内田領事の一一月五日付け外務大臣あて報告書で述べられている三浦梧楼と大院君の共謀説も、三浦公使を中心に内田領事も協力しつつ行われた、関係者の口裏合わせとの整合性を図る過程で創作されたものである。
しかし、王妃事件をめぐる日本側記録の多くが虚実取り混ぜたものであるなかで、内田が事件直後から書き送り続けた原敬外務次官あて私信の史料価値はきわめて高いことを述べた。
王妃事件の最終処理のため、原敬は自ら在朝鮮国特命全権公使となり、一八九六年六月にソウルに赴任する。その後、内田定槌には賜暇帰朝が許可され、七月一三日にソウルを発ち、二四日に東京に帰り着いた。そして九月、希望どおりニューヨーク在勤を命じられ、一〇月に東京を発ち、一一月三日にニューヨークに着任した。
註
(1) 以上の略歴は、内田家に残された内田定槌の日記を学界に紹介された早島瑛の論考に依った(「内田定槌日誌」『史学雑誌』ハハのハ、一九七九年八月)。早島は第一次世界大戦後のドイツの対露単独講和に、スウェーデン公使として内田定槌が重要な役割を果たしたことに注目し、大正三年から七年までの内田の日記中、この問題に関わる部分を抜粋して紹介した。なお、内田家に残された日記中に、上海、京城、ニューヨーク、ストックホルム初期のものはない、とのことである。
(2) 「在韓国帝国公使館及各領事館警察官の配置」(『外務省警察史』第三巻、復刻版四頁)。本書の原本は外務省外交資料館所蔵の草稿であり、一九九六年に不二出版から、原本を縮小して四頁分を一頁とする方式で復刻された。復刻版四頁に掲載されている当該史料によると、明治二七年回十二月三一日調べで京城領事館には巡査十二名が、明治二九年度増加定員として同五〇名が配置されている。
(3) 藤村徳一編『居留民之昔物語』所収「入京当日の困惑」(朝鮮ニ昔事務所、京城、一九二七年) 北川吉三郎は、一ハ八七(明治二〇)年一五歳のときに、小川実の斡旋で東京の朝鮮公使館の給仕 になった。その時、公使館の日本語通訳官は安駉寿であったという。その後、朝鮮国外部顧問になった小川実に呼ばれて、一ハ八九年一〇月からソウルに移住した。一八九三年一〇月末には、公使館付 武官渡辺鉄太郎大尉と大鳥公使の依頼により、「東学党」の内情偵察の為め、売薬商人に化けて全羅道金堤付近に行ったこともあった。朝鮮語がよくできたようである。
(4) 外務省調査部第一課編「内田定槌氏述 在勤各地二於ケル主要事件ノ回顧」(『近代外交回顧録』第一巻所収、ゆまに書房、二〇〇〇年)
(5) 西園寺の内田に対する叱責と内田の反論も、「景福吉之図(現王城)」も「王宮事変に閲する公報」の内田訳も、外交史料館の文書ファイル「韓国王妃殺害一件」には残されているが、『日本外交文書』には収録されていない。このファイルの存在はつとに知られ、誰でも閲覧は可能であったが、今まで十分研究されたとは言えない。文書ファイルから、王妃殺害現場を示した地図を発見したと、ソウル大学の李泰鎭教授が新聞発表したのは、二〇〇五年一月のことである(『朝鮮日報』二〇〇五年一月一三日)。当時はまだ、目撃者証言や日本人の手記などをもとに、屍骸がいったん持ち込まれたところ、「玉壷楼」が遭難の地と考えられ、その付近に「明成皇后遭難之地碑」が建てられていたが、それを見直す必要を指摘したのである。
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追加資料 閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母―角田房子/著
(287-288p)
これから私は閔妃が殺害されるまでの経過を書き進めてゆくのだが、そこには実に多くの”不明の点〃がある。九十余年前の事件だから資料が乏しいという理由ではない。杉村濬、安達謙蔵、小早川秀雄をはじめ事件に直接かかわった多くの人々の手記があり、また三浦梧楼から外務大臣臨時代理西園寺公望あての多数の電報もあるのだが、みなそれぞれの立場や思惑によって書かれているので、一つの事実についても、日時をはじめ内容にも大きな違いのあることが多い。
事件から十数年、あるいは数十年後に書かれた関係者の「回想」にも、明らかに事実とは違う記述がある。後年になってもなお閔妃暗殺を「愛国心による立派な行為」であったと記録したい心情もあり、今さら真相を暴露して自分をも含む関係者を傷つける必要はないという考え方によるものもある。また事件当時の” 偽装〃の一部を生涯信じ続けた人も、少数ながらいたらしい。
閔妃が暗殺された直後から、ロシア、アメリカなどソウル駐在の外交団はいっせいに日本攻撃の火の手をあげ、一時は国際的大事件に発展する様相を呈したため、日本政府は三浦公使はじめ事件関係者全員を帰国させて、法廷で裁いた。その広島地方裁判所の記録もあるのだが、容疑者の陳述は事前に口裏を合わせてあり、裁く側も、”日本の立場〃への配慮から、事件の核心に迫ろうとする態度は弱く、要するにあてにはならない。
さらに朝鮮側にも、”乙未事変”と呼ばれる閔妃暗殺について多くの調査資料がある。事件当時の金弘集内閣は日本の勢力下にあり、事件の調査など思いもよらなかったが、翌一八九六年二月、王が王宮を脱出してロシア公使館に移った後の新内閣が調査に着手した。これは厳正な態度で臨んでいるが、治外法権のため日本人関係者を調べる権限がなかったという難点がある。この年五月に法部協弁(法務次官)兼高等裁判所判事であった権在衡が関妃暗殺の記録をまとめて、法部大臣兼高等裁判所裁判長である李範晋に提出した。
のち権在衡の記録は、三浦梧楼はじめ関係者全員を裁いた広島の裁判記録と共に、朝鮮の民間記録『大東紀年』『韓国痛史』『韓国季年史』などに影響を与えた。
─────────────────────────────────────http://kakaue.web.fc2.com/syo2.html#binpi
朝鮮国王城之図 クリック↑
ニュースで追う明治日本発掘 (5)
資料⑤
「日本外交文書 明治 第28巻1冊365番」(外務省)498頁
「日韓外交資料(5)韓国王妃殺害事件」(原書房)80頁
韓国駐剳三浦公使より西園寺外務大臣臨時代理宛
京城守備兵召還方稟申に付き答弁竝邦人の事変に加入事実報告の件
電信明治二十八年十月十日 午前十時一五分発
午後0時 五分着
西園寺大臣 三浦 公使
貴電落手せり我守備隊は素より騒擾鎮撫の為め出張したるものなれば表面之れを援け之を敵とすへき道理なきも其内情は訓練隊に厚つく該隊をして其目的を達せしむることに援助を与へたるは事実免れさる所なり 因りて外邦の非難多ければ真に警備の任務を尽したるや否やの事実を取調を名として召還を命せらるゝことは適当の処置にして且つ政略上得策ならんと存じたる故なり 又大院君の依頼を受け同行して王宮に赴きたる日本人十五六人あり右は固より過激のことはすべて朝鮮人にて之を行はしめ日本人は唯た其の声援を為すまてにて手を下さゝる約束なりしも実際に臨んで朝鮮人躊躇して其働き充分ならざりし故時機を失はんことを恐れ日本人の中にて手を下せし者ありと聞けり 尤も右等の事実は内外人に対し厳重に秘密に致し置きたれども其場に朝鮮入居りし由なれは漏れ聞きしことなきを防く可からす其他の日本人は事変を聞き見物方々刀若くは仕込杖等を携へ駆けつけたる弥次馬連にて其数二三十名もあるへし 右等の事実は一昨日の電報にて申進めたる如く本官始ょり黙視したる事なれは然る可く御推量相成たし 尚ほ守備隊竝に王宮に進入したる日本人の処分につき何分の訓令を仰きたし 尤も朝鮮政府よりは日本人は殺害等乱暴の挙動は一つも無かりしとの証明書を取り置きたり…又大院君より…も其随行の朝鮮人に日本服を着せしめたるは朝鮮人は常に日本人を恐るゝ故へ故意に多数の偽日本人を作りたりと云はしめ政府其他の人々云合せたり 此二件は外国人に対し水掛論の辞柄となす考へなり
(辞柄=口実)
───────────────────────────────────────
(参考) 朝鮮王宮占領事件が引き起こしたもの
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj080811.html
歴史を改竄する者
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj080429.html
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